【小説】ペトラの初陣 79

 体が、ふわりと宙に舞った。

 その男は、ぺトラを抱きかかえたまま、扉付近まで移動する。


 ぺトラは声も出なかった。


 リヴァイ兵長。


 手にしていたアンカーを、今は地面に放り捨てていた。


 ぺトラが撃ち放った、一発目のアンカー。

 それは信煙弾の弾幕に紛れて、ミュンデの背後へと飛んでいった。


 外れたのではなかった。


 リヴァイの指示に従い、あえて外したのだ。

 それは大広間の入口の、まだ残っている方の扉に突き刺さった。


 信号弾の赤い煙に覆われて見えなかったが、音で確信した。


 突き刺さるとほぼ同時に、リヴァイが、それを握りしめる。


 ミュンデの背後で、兵長が握っていることを信じて、


 ぺトラが再びそれを装置内のウィンチで巻き取る。
 


 その勢いを借りて、オルオのブレードを持っただけのリヴァイが、


 ミュンデのうなじに迫る。

 装置のない兵長は、高く飛び上がることができない。


 巨人がしゃがんでいればこそ可能な攻撃だった。


 本当の囮は、ぺトラ自身だった。


 一番危険な役だった。


 それこそが、あの短いやり取りの中で、リヴァイがぺトラに伝えた作戦だった。

 うまくいくかどうかなんて、正直分からなかった。


 


 ただ実行できたのは、ぺトラはその命令に、

 
 恐怖よりも、喜びを感じたからだった。

 信頼されていると感じたのだ。

 もちろん他に選択肢はなかったが、


 その大役を任されたことが、やはり嬉しかった。


 まさかそこにエルドさんの信煙弾や、


 エルヴィン団長やハンジさんの捨て身の行動が加わるとは、


 ぺトラは思いもしなかった。


 もしかしたら、全ては即興だったのかもしれない。

 あの場にいる全兵士のとっさの判断で、いくつもの偶然が重なっただけかもしれない。

 でも、今はそんなことはどうでもいい。


 もう何も考えられない。


 疲れ切っていた。


 だが同時に、喜びに溢れてもいた。

 今はこの人が、私を抱きかかえている。


 

 ただ、そのぬくもりだけを感じていた。


 感じていたかった。

 リヴァイは扉の前まで移動すると、ぺトラを慎重に地面に寝かせた。


 そして、首元のスカーフを外す。


 ワイヤーを素手で強く握ったせいだろう。


 手のひらの皮がむけて血が滲んでいた。


 痛々しかった。


 もう一方の無傷の手で、スカーフをつまむ。


 いつも清潔にしている、まっさらなスカーフ。


 リヴァイはそれで、自分の血だらけの手ではなく、


 ぺトラの頬を静かに拭った。

 血が、ついた。


 頬から血が出ていることを、ぺトラはそれで知った。

 おそらくミュンデの爪が頬を掠めた時に、傷がついたせいだろう。

 


「ダメです、兵長」


 ぺトラは頭を起こし、肌からスカーフを離した。


 そんな力だけは、まだ残っていたらしい。


「スカーフが、汚れちゃいます」


 リヴァイはかすかに眉間にしわを寄せた。


 
「前にも言ったが」


 もう一度、ぺトラの頬に押し当てる。

「別にお前の血は、汚くない」


 不愛想に言葉を吐き出し、そっぽを向く。


 その瞬間、ペトラ・ラルは、改めて理解した。


 圧倒的な出来事の前では、体が動かない。


 心を奪われる。


 こんなにも、誰かに強い気持ちを抱くとは。


 ここまで感情を揺さぶられた経験など、今までなかった。


 ぺトラは、母親の言葉を思い出した。


 今、やっと少し分かった気がする。


 誰かのために、生きるということ。
 

「まぶたを押さえとけ。目に血が入るぞ」


 兵長は立ち上がると、そう言い残してその場から離れた。

 すぐに被害状況の確認を始めている。

 兵長の肌触りは消えてしまう。


 だがスカーフは、まだ頬に柔らかく触れている。


 まだ、その温もりも残っている。


 まぶたを軽くこすってから、目をゆっくりと開けた。


 いつの間にか、雨は上がっていた。

 
 崩れた天井を通して、白みがかった空が見えた。


 もうすぐ、夜が明ける。

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