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vol.3 「日帰り温泉」 啓蟄(3/5〜3/19)

 陽の光が明るく柔らかい。
地中の虫も「おぉ春がやってきたのか」と這い出す季節。虫に限らず、春の気配を感じるだけで、人間もソワソワとどこかへ出かけたくなってしまうのは気のせいではないでしょう。
 真っ白なコットンのギャザースカートに、リネンのコートをふわりと羽織って。首には明るい色のストールをくるくる巻けば、足取りもついつい軽くなる。が、三寒四温の言葉の通り、暖かいと思って油断をしていると、小雪が舞うほど寒い日もあり、そうやって一歩、一歩、本格的な春へと季節は歩みを進めていく。たとえ暖冬であっても、このくっきりとした温度変化には体もビックリしてしまう。なかなか堪えるものがある。そんな時に頼りになるのが温泉だ。

 結婚がきっかけで三春へ移住をすることになったが、そもそも私が福島県を度々訪れるようになったのは、まだin-kyoも開店していない今から20年ほど前のこと。とあるイベントで、福島市にある「あんざい果樹園」のご家族に出会ったのがはじまりだ。季節ごとの自然の美しさ、とびきり美味しい桃・梨・りんごが健やかに育てられている場所。何年にも渡って足を運んでいたのはそれだけではなく、何よりあんざい家の人の魅力に惹きつけられたということが、一番の理由に他ならない。それは私に限ったことではなく、同じように感じている人は他にもたくさんいるに違いない。
 遊びに行くとよく温泉へ連れて行って頂いた。さっきまでお茶をしたり、果樹園の仕事を手伝っていたかと思うと、不意打ちのように「じゃ、温泉行くよ!」と車にドタバタと乗り込んで温泉へ向かう。はじめの頃はお風呂の用意にモタモタしていたものだが、お陰で今では随分と準備も早くなった。今回はあの温泉へ、次はまだ行ったことのないあちらへ。

「温泉があれこれ選べるとは。なんて贅沢なことだろう!」

 当時はあんざい家に行く=温泉。そんな風に思うくらい福島へ出かける際の楽しみのひとつにもなっていた。まさか自分がその福島で暮らすことになるとは、夢にも思っていなかったのだけれど。
 三春町で暮らすようになって間もない頃は、町内の日帰り温泉へあちこち出かけてはよく利用していた。in-kyoからも歩いて行くことのできる若松屋旅館、三ツ美屋旅館。やわらぎの湯では岩盤浴に入ることもできる。レンガ壁の古い建物が目を引くぬる湯旅館の銭湯も風情があっていい。車で少し足を伸ばせば、三春の里や斉藤の湯(下の湯、上の湯)で小旅行のような気分も味わえる。シャンプーとリンス、タオルに小銭入れ。それに簡単な化粧道具といった温泉セットを小さな竹かごに入れて出かけるようにしている。いつかは三春のシルバー人材センターの方に竹で温泉かごを編んでもらえたら。そんなことまで妄想を膨らませて。
 張り切るように出かけていたのは、どこか旅行者に似た気持ちからだったのかもしれない。まだ知り合いがほとんどいない町の、新しい場所や出来事ひとつひとつが新鮮でたまらなかったのだ。
 中でも若松屋旅館へは夫婦二人で、また東京などの県外から来た友人たちを連れて、今でもよくお邪魔をしている。温泉へと続く廊下を歩いていると、宴会場から賑やかな笑い声やカラオケの歌声が聞こえてくることもある。その様子にこちらまで宴に混ざった楽しい気分にさせてもらっている。
 フロントではたいてい女将がいらして、いつもにこやかに出迎えて下さる。それはまだ名前すら名乗っていない頃からずっと変わらない。旅館というお客様相手の商売なのだからそれは当たり前だと女将はおっしゃるかもしれないけれど、私たちにとっては、引越しをして間もない頃からホッとする場所を見つけられたような気がして癒されていた。温泉がほぐしてくれるのは効能云々だけではなく、やっぱり「人」なのだ。
 東京から何度も訪れている友人たちは、女将とすでに顔見知りになっている。他所から移り住んで日の浅い私たちが案内をする場所ができ、友人たちもそこに自然と馴染んでいく様子を目にすることは、今までに味わったことのないなんとも言えない嬉しさがあった。嬉しさというか、幸せな気持ちというのか。
 町で少しずつ少しずつお知り合いが増えていったのは、お店を始めたこともあるかもしれないけれど、何かと気にかけて頂いた若松屋旅館の専務の存在が大きく、出会って間もない頃から垣根なく私たちに接して下さったお陰だと思っている。とてもお忙しい方で、旅館のお仕事以外にも、町やその他私たちが知り得ることなどないたくさんの業務をこなし、幅広い人脈をお持ちだった。それでもせかせかしたところがなく、会うといつも楽しく穏やかな笑顔で、飲み会やバーベキュー、ライブのお誘い、in-kyoの10周年の際にはお祝いまでして頂いて。
 若松屋旅館のフロントで顔を合わせることは滅多になかったというのに、風呂上がりに油断をし、眉毛すら描いていないすっぴんの時に限って帰りがけに出くわすということが幾度かあった。あれ以来、眉毛くらいはササっと描かねばと、お風呂道具に加えているのに。
 

 ほんのお礼すらできないままずいぶんと早く、しかも突然遠くへと旅立たれてしまった。ひょっとしたら長期出張で海外にでも視察旅行にお出かけなのかもしれない。そうであったらいいのにと、何度思ったことか。今でもそれくらい現実味がないままだ。
 恩返しと言えるようなことは思いつきもしないのだけれど、私ができることと言ったら手紙のようにこの「三春タイムズ」で三春のことを書き続けることしかないのだろうか。

どこかで読んでいますか?

ゆらゆら、ゆらゆら。
立ちのぼる温泉の湯気に乗って
手紙よ天まで届け。


*次回は春分の日、3/20にUP予定です。