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【劇評293】亡父富十郎を思い出させる鷹之資、渾身の『船弁慶』

 鷹之資、渾身の『船弁慶』を観た。
 この踊りに真摯に取り組む姿を観ながら、十八年前、二○○五年六月歌舞伎座に出た『良寛と子守』が思い出された。

 良寛は四世富十郎、子守およしが二代目尾上右近、当時、本名中村大を名乗っていた鷹之資は、里の子大吉だった。

 まだ、幼かったからだろう。踊りの途中で、鷹之資は舞台から引っ込んでしまった。あわてた富十郎は、急に父親の素に戻って「大ちゃん、大ちゃん」と必死で呼び戻そうとしていた。「大ちゃん」は、舞台には戻ってこなかったので、富十郎は、袖に引っ込んで迎えにいった。
 親馬鹿ではない。晩年に恵まれた長男を、いとおしく思っているのが、yとくわかった。
 天国にいる富十郎は、「大ちゃん」が歌舞伎座で踊る『船弁慶』を、さぞ喜んでいることだろう。 

 さて、今回の舞台に戻る。
 前シテの静御前が抱え込んだ流浪の身の悲しさ、後シテ、知盛の霊となってからの荒ぶる魂をキビキビとした身体で見せている。

 この演目に賭けて、徹底して踊り込んだのがよくわかる。


 無心で踊り込んだ結果、内心にあるイメージがきっかりと観客に伝わってくる。さすが五世富十郎の息子だけあって、踊れることが歌舞伎役者の根本にあると信じて、修業を重ねてきたのだろう。

 兄頼朝に疎まれ、西国へと逃れる義経(扇雀)、弁慶(又五郎)らの一行は、大物浦に辿り着き同道してきた静御前(鷹之資)を都へ返す決意をする。
 受け入れがたい別れを胸の奥に、静御前は舞う。鷹之資の舞は、都名所と呼ばれるが、詞章が経つように、ひたすら丁寧で、乱れがない。若年にもかかわらず、ふっくらとした色気がある。義経一行が見守る劇的な設定だけれども、静御前がふっと浮かび上がる。お能に学びつつも、歌舞伎舞踊の華やかさがある。引っ込みの七三、思い入れをする件りも、哀感に溢れている。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。