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【劇評192】白鸚の『一條大蔵譚』。作り阿呆よりは、知性ある趣味人として。

 感染症対策のために歌舞伎座は、四部制をやむなくとっている。十二月も同様だと聞く。この上演形態が長く続くと、歌舞伎上演のありかたについて、考えざるを得ない。

 十一月歌舞伎座第三部は、『一條大蔵譚』の「奥殿」単独の上演である。「檜垣」を欠くのは、上演時間の関係だろう。あまり出ない「曲舞」は、もちろんである。

 そのため、大蔵卿の役作りがむずかしく、まっさらな気持ちで観ると、狂言や小舞を愛して、憂い世に向かい合わずにいる人間の孤独、さみしさをつたえるのはむずかしい。

 それは白鸚ほどの実力者、名優でも避けがたいことだ。これは「ミドリ」での上演だと自分に強く言い聞かせながら、舞台を観た。

 芝翫の鬼次郎は、まず出から大きさがあり、あくまで可憐な壱太郎のお京と対比がでた。壱太郎の若女形としての精進がよくわかる。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。