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野田秀樹の劇場 その1 駒場小劇場から紀伊國屋ホールへ。

 「野田秀樹の劇場」と題して、2009年に書いた原稿が出てきましたので再録します。野田さんの作品論ではなく、劇場との関わりについて書いています。野田さんが、東大駒場キャンパスにあった小浜小劇場から、現在、芸術監督を勤める東京芸術劇場に至るまでの軌跡を概観します。海外での公演についても触れています。
 このシリーズは、明日から全四回で、毎日更新いたします。どうぞお楽しみに。

 思えば長い旅を続けてきた。
 一九七六年、夢の遊眠社結成から、現在まで。二五年あまりの歳月が過ぎ去っている。
 演劇人にとって、劇場は仮寝の宿である。仕込みをし、舞台稽古を行い、公演の初日が開き、千龝楽を終え、バラしを行って、その場から去っていく。ひとところにとどまることはない。
七六年五月の旗揚げ公演は、『咲かぬ咲かんの桜吹雪は咲き行くほどに咲き立ちて明け暮れないの物語』だった。
駒場小劇場の公演である。小劇場の舞台幅は、およそ十二メートルを超えていただろうか。学生食堂を改造したこの劇場は、八メートル近い高さを持ち、いわゆる小劇場の規模を超えていた。照明機材を吊るために舞台の上手下手に鉄骨が組んであったが、舞台も客席も固定されておらす、作品によって自由に舞台空間を作り変えることができた。
 東京大学駒場キャンパスの施設であったために、大学に在籍する学生による申請が必要だったが、長期に渡って借りることが出来、本番を行う舞台で、稽古を行える利点があった。もちろん野田秀樹率いる夢の遊眠社の独占ではなく、今は亡き如月小春が主宰する劇団綺畸なども後年、公演を行うことになる。

 当時、六本木にあった自由劇場の狭隘な空間と比較してみても、駒場小劇場がいかに恵まれた空間であったことか。この特異な空間がなければ、ダイナミックな野田秀樹の空間造形は、生まれなかったのではないかと思う。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。