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【劇評331】ショーン・ホームズの『リア王』が浮かび上がらせた世界の深い霧。

 舞台奥には、全面をおおう白い壁がしつらえてある。上手には、コピーマシン、下手には、ウォーターサーバーがある。領土分割に用いられる英国の地図は、プロジェクターで白いホワイトボードに映し出される。照明は、オフィスビルにあるような蛍光灯の列である。

 シェイクスピアの『リア王』(松岡和子訳)を、演出のショーン・ホームズと美術・衣裳のポール・ウィルスは、装置ばかりではなく、衣裳も主要な人物には、スーツを着せることによって、現代の物語へと変換した。

 これには利点と欠点がある。
 利点は、古典として鑑賞する力みから、観客を解放する。リア王と三人の娘、グロスター伯と二人の息子の物語は、瀟洒なオフィスを持つ企業のスケールになる。つまりは、古今東西、あらゆるところで起こってきた等身大の物語となった。

 欠点は、王族や貴族であることの尊厳と責任が描きにくくなる。第三幕の第二場は、肥大した自負心を折られたリアが、王であろうとも太刀打ちできない荒野の大自然と対峙する場である。こうした場では、王族と自然の深刻な関係が見えてこない。

 こうした長所と欠点は、当然のことながら、演出の方向を決めたときに、ホームズの頭にはたちどころに浮かんだに違いない。私は、超人的なエネルギーを名優が演じる『リア王』が、少なくとも現在の日本の俳優にふさわしいとは思えない。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。