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十二代目市川團十郎 追悼文 2013年2月3日歿


 巨星墜つという言葉がふさわしい。歌舞伎界を代表する役者が、まさしく円熟期に失われたことは重大な損失で、目の前が暗くなる。

 十二代目市川團十郎は、十一代目の実子で、昭和二十一年に生まれた。美貌で知られた父の芸を受け継ぐ間もなく、昭和四十年に高校生で父を失っている。菊之助(現・七代目菊五郞)故・辰之助(三代目松緑を追贈)とともに三之助と呼ばれたが、若年にして後ろ盾がいなくなった当時、新之助の苦労は並大抵ではなかったろうと思う。

 昭和四十四年に、十一代目市川海老蔵を『助六由縁江戸桜』の助六ほかで襲名してからは、進境著しく、歌舞伎十八番の継承に力を注いできた。二代目松緑、六代目歌右衛門、十七代目勘三郞と昭和を代表する名優たちに指導を受け、昭和六十年、四月、五月、六月の三ヶ月にわたって、歌舞伎座で十二代目團十郎を襲名したときの華やかな舞台が忘れがたい。『勧進帳』の弁慶、『助六』の助六は、歌舞伎界を代表する市川宗家としての大きさに充ち満ちていて、花道の「出」から舞台がひときわ明るくなった心地さえした。

 平成十六年に大器といわれる長男の新之助が十一代目海老蔵を襲名したのは何よりの歓びだったろう。みずからの苦労を埋め合わせるように、すべてを取り仕切り、襲名の扇子から引き幕の絵まで團十郎自身が描いた。その歓びのさなか、初日があいてわずか九日間で白血病を発症したのは、どれほど無念だったことか。

 けれど闘病の結果、半年後十月のパリでの襲名には舞台に復帰。シャイヨー宮で行われた初日パーティでも、治療のために頭髪を失ったにもかかわらず、明るい笑顔で周囲に接していた姿が鮮烈な記憶として残っている。
 平成十九年の三月、パリ・オペラ座 ガルニエで行われた公演で、海老蔵と『勧進帳』の弁慶と富樫を交互に演じて成功を納めたのは、戦後の海外公演史のなかでも、画期的な出来事であった。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。