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【劇評家の仕事5】遊興の徒となるべく、学生時代を過ごしました

 なぜ、文藝でもなく、映画でもなく、演劇評論家になったのでしょうか。
 ひとことで答えるのは、むずかしいのですが、子供のころから藝能に触れる環境があったからです。人形町の末廣亭、上野の鈴本演芸場、新宿の末廣亭の風情が思い出されます。

 なかでも、今はもうない人形町がなつかしい。当時は椅子席ではなく、桟敷でした。父とふたりで毎週のように寄席に通っていました。座布団や煙草盆を持ってくると、心付けを渡す。父のその姿を見ていると、大人の世界をのぞきみているようでした。

落語家が私のアイドルでした
 子供でしたから、古典落語よりは、新作のほうがとっつきやすく、桂米丸師匠の贔屓を気取っていました。サインがほしくて、楽屋に大学ノートを持っていくと、前座さんが応対してくれて「これに書くの」といわれました。まだ、色紙を持っていくのが礼儀だとは知りませんでしたし、小学生は、色紙をどこで求めていいかさえもわかりません。

 番組が終わって、ノートを返してもらいにいくと、米丸師匠だけではなく、その日に出演したみさんの名前がひしめいていました。「みんなで書いておいたから」。そんな牧歌的な時代もあったのだと思い出します。

 少しませた小学生もいずれは、中学生になり、毎月ではありませんが、親に歌舞伎座や新橋演舞場に連れて行ってもらうようになりました。三階のおでん食堂で、茶飯とおでんをいただくのがたのしみでした。今の歌舞伎座よりも、どこかほの暗く、蠱惑的な場所だったのでしょう。まるで、秘境を訪ねたように、歌舞伎座が記憶に刻まれました。

 そんなこんなするうちに、アングラ芝居を友人の住田君と連れ立って観に行くようになりました。
 批評に接したのは、そのあたりからで、雑誌「新劇」に掲載されていた扇田昭彦さんの批評にひかれました。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。