菊之助の当り役1 『京鹿子娘道成寺』

令和元年五月 歌舞伎座夜の部1

 未来を信じるといえばたやすい。

 が、これほど困難な時代を生きていれば、あらゆる芸術ジャンルが果たして伝統と革新を継続的になしうるのかが疑われるのは致し方ないだろうと思う。

 今月の歌舞伎座、團菊祭五月大歌舞伎の眼目は、尾上菊之助による『京鹿子娘道成寺』に尽きるだろう。
 菊之助自身がひとりで『道成寺』を踊ったのは、平成十一年の一月、浅草公会堂である。坂東玉三郎の薫陶を受けて『京鹿子二人娘道成寺』を踊り、回を重ねるうちに重要な件りを任されるようになっていた。菊之助にとって久しぶりの『京鹿子娘道成寺』となったのは、平成二十六年三月の京都南座。今回、歌舞伎座の出し物となった。

 歌舞伎座にとって『京鹿子娘道成寺』は、特別な意味を持つ。

 戦後、ひとりで踊ったのは、年代順に数えると、六代目歌右衛門、七代目梅幸、二代目時蔵、二代目橋蔵、十七代目勘三郎、五代目富十郎、七代目菊五郎、七代目芝翫、五代目玉三郎、五代目時蔵、四代目雀右衛門、九代目福助、十八代目勘三郎、十代目三津五郎に限られる。
 わずか十四名。
 独自の公演で出した橋蔵を除けば、十三名となる。

 しかも父七代目菊五郎でさえ、大名跡襲名の折りに踊ったのであり、この演目が興業会社の松竹にとっても、歌舞伎界にとっても、重要なメルクマールとなっているのがわかる。おおげさな言い方ではなく、気力体力に充分な自信がなければ、松竹や先輩方が許しても、出し物として出せるはずもない。
 もはや、ひとりでは踊りきれぬと思えば、若手を起用して『二人道成寺』や『男女道成寺』とする他はない。

 さて、菊之助の道成寺はどうだったか。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。