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いつも年末年始ぐらい必死に生きられたら

大晦日の夜、タイムラインが年末の紅白やお笑いの話題で明るく盛り上がっていた。「SNSに疲れた」「紅白はオワコン」…最近そんな声は少なくない。しかし、こうした明るいタイムラインをみると、Twitterは良いサービスで、紅白は世代やクラスタを超える最高のコンテンツだと思う。プラットフォームを生かすも殺すもユーザー次第。

もちろん生活には「ハレ」「ケ」があって、いつもハレばかりだと、過ごしている側も・見ている側も疲れてしまう。だがハレを禁じられている日常にあって、年末年始は「盛り上がってからゆっくり過ごす」そんなメリハリを久しぶりに取り戻した日々となった。

2021年の過ごし方

いつも年末年始ぐらい必死に生きられたらと思うこともある。「必死」を考えるとき、塾の先生の言葉を思い出す。

「心の限界は、体の限界の先にある。体が諦めるより、先に心が諦めてしまうことが多い」

体の不調を無視して、がんばり続ける事は禁物だ。しかし逆の見方をすることもできる。「体に限界が来ている位の負担がかかっている=心の限界をとっくに通過している」と。

だから「もう無理。やる気が出ない」と思っても「最初の10分まず手をつけてみる」というのを改めてやってみようと思う。

最近つけている日報を見返してみると「締め切り間近の終末努力」に頼りすぎていることに気が付く。それは体に負担をかけることをし、質よりも締め切りを重視することになりがちだ(締め切りを守るのは当然のことだが)。

なんとなく後半ペースダウンしてしまった2020年

締め切りや効率の良い動き方を考えすぎると「気持ちが乗る」や「時間配分」を締め切りギリギリまで求めてしまいがちだった。「ご自愛」の名目のもと、ダラけてしまっていた部分を否定できない。バランスの良い働き方・効率の良い時間の使い方は大事だが、自分自身のパフォーマンスに目を向けられていたかと言うとちょっと怪しい。

ご自愛と言うのはなかなか難しい。自分を愛すること・労る事に程度はなく、ある種ゴールがないとも言えるからだ。そう悩んでいた年末、この記事を読んだ。自分のなかでも「ウィルビーイング」がある種のバズワード化してしまっていたことに気がつかされる。

よく生きること・よく動くこと・よく休むこと、その意味を自分なりに落とし込んでいきたい。

幸福とはなにか?

ところで「よい」とは何か?そんな疑問もふと考え込んでいると、年末見たあるツイートを思い出した。たしか松下幸之助の書籍の抜粋だったと思う。

「幸福」に関する考えだ。該当のツイートが見つからないが、こんなニュアンスだったような気がする。

幸福は、本人の幸せ+社会(周囲)の幸せの両方があって初めて実現される

幸福と言うと「自分が幸せか?」だけを考えがちだ。しかし、たしかに関わっている人や社会が幸せかどうかも間接的には影響する。自分だけが幸せな状態では罪悪感を持ってしまう。また住む地域の貧しさは、暮らしの貧しさ、ひいては自分の幸福を毀損する原因となる。

どうしたら自分も社会も幸せにできるのか?

自分も社会も幸福になるとっかかりの一つは「よく働くこと」だと浮かんだ。以前も「働くことは社会に関わることだ」と書いた。

自分にとって働くことは、社会に関わることだ。それはコミュニケーションのきっかけでもあるし、人と関わる話題を増やすことでもある。

前述の通りであれば、高い給料を得るだけでは幸福は実現しないのだろう。だから自分は働くときも「邪悪なことをしない」「エコシステムや社会を破壊しない」選択を、これからも選んでいきたい。

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