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地元のスモールビジネスの衰退、その先にある暮らしの貧困化

地元の店が閉店すると「寂しい」「悲しい」「残念」と思わず口にしてしまう。何年も行っていないし、思い出してすらいなかったのに。

「閉店を惜しむ客がいるのに潰れてしまう店のリアル」という記事をきっかけに、「よく知る店が無くなる」ことの喪失感の正体を少し考えてみた。

地元のスモールビジネスの衰退

愛着がわく店。そんなキーワードで想像するのは、地元に密着した個人店だ。

心を緩ませる味わい深いコーヒー、知らない人と知らない自分を発見できるバー、インスピレーションで世界を広げてくれる書店、感動とモチベーションを与えてくれるレストラン、見た目も気持ちも変えてくれるヘアサロン、芯まで溜まった疲れをほぐしてくれる銭湯。

ちょっと割高で、決して洗練されておらず、ムラのある接客、そんな店。コスパや安定した質、ストレスにならない接客は、大手チェーン店に劣るところが多い。

しかし、個性的で地元に根差した個人店は、暮らしを豊かにしてくれる。「家」と「街」とを結び付けてくれる大切な存在でもある。

これらの場所はぼくたちの生活に文化を届けてくれて、喜びと彩りを与えてくれる。そして、自分の生活と、自分が暮らす生活圏を結びつけてくれるコミュニティハブ的な大切な存在でもある。
『Lobsterr Letter』vol.55 : Small Is Beautiful

世界中のビジネスやカルチャー、未来の兆しになるニュースを紹介する『Lobsterr Letter』でも「文化としてのスモールビジネス」というタイトルで、スモールビジネスと文化の接続性について取り上げられた。

これらの記事を読むと、地元の店での体験が、自分の原体験や価値観を形作っていったことを実感できる。

だから愛着のある店が閉店することに「寂しい」「残念だ」と口にしてしまうことは、ある意味で自然なのだろう。自分の歴史を構成する一部が失われたわけだから。

コロナ禍で、エリアマーケティングを放置してきた店舗の経営基盤や集客の脆弱性が明らかになった。「愛着がある」にもかかわらず、地元のスモールビジネスはどんどん減り、代わりにマーケティングに長けたチェーン店がその穴を埋めていくだろう。

チェーン店が「個性を生かしたまま拡大する」のは非常に難しいし、リスクもある。客側も「こういうもの」と思って来店するからだ。だから標準化したマニュアルになる。同じ店が増え、個性を育む街の装置は、これからどんどん失われていくだろう。

外出・移動量が落ちた現在、同じ店に通い、同じようなサービス、同じような接客を繰り返し浴び続ける。その感覚は、現代アーティスト石田徹也の「燃料補給のような食事」という作品を思い出させる。

それでも「推しは推せるうちに推せ」しかない

「好きだった店」「よく行っていた店」は、失われる瞬間まで、存在の大きさを知ることができない。もしかしたら、瞬間ではなく、ずっと後に喪失感を知ることになるかもしれない。

喪失感を逃れる、あるいは紛らわせる方法の一つは「推す」ことだ。

行けなくても「いきたい」「おすすめ」と人に教えるだけでも良い。そのためのツールはたくさんあるし、それはネット社会の良い面でもある。

この大きすぎる波の下では、推しにもかかわらずなくなってしまう店は多いだろう。それでも「推した」「推された」という事実は、お互いに肯定感を残すはずだ。

失われて初めてわかるでは、遅い。

新型コロナで露わになったように、飲食店は経営基盤は脆弱だ。本当になくなって欲しくない店なら、閉店のポスターが張り出される前に、今すぐ足を運ぶしかない。惜しむ声をあげても、後の祭りである。
閉店を惜しむ客がいるのに潰れてしまう店のリアル

しかし、地元のスモールビジネスでの体験が暮らしに豊かさをもたらす、というのは、過渡期の感傷かもしれない。ウィズコロナ・アフターコロナでは、新しい暮らしにもとづいた新しい豊かさがきっと創造されていくのだから。

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