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公教育の英語教育にひと綴り

友人と小学校の英語教育の話になりまして。そして将来子供が生まれたら、どう子育てをしたいかという話になりまして笑。

やっぱり日本人は、英語というものにアレルギー反応があると思うんです。自分ができなかったから、せめて子供には。
英語は早めに始めたら良い。そんな話から小学校の英語教育の話になって、そこから酒を飲みながら激論になったのですが笑。

ちょっと公教育の話が出たので、元教育学部英語専攻らしく?、悶々としてた思いをざっと綴ります。

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公教育における英語教育の本質は、英語ペラペラでグローバルな人材を生み出すことではない、と思う。
トイックで高得点、ビジネスに通用する、ネイティブに通じる英語力。もちろん目指すことが悪いことではなく、公教育の英語教育に求めるのは、どこか違う気がする。実際に現状の英語教育界の動きは、グローバル化という言葉に踊らされすぎている。公教育から世界のビジネスの舞台に立てる人材を生み出そうと、改革が進んでいる。

どうかな、やっぱり言語を学ぶことは、政府や企業が求める人材になるためなのかって思ってしまう。

僕は英語を大学まで、大学から韓国語を今も勉強している。
その個人的な経験から言語を学ぶことの本質は、

「相手の歴史やアイデンティティー、言語の仕組みを理解して、自分の思いを伝えるための学習」

であると現段階で位置づけている笑。

だから言語の学習には、相手の言語のリズムや文法の違いや変化など、言語的な学び。そして相手の歴史や人間そのものをリスペクトすること。自分の考えや感じてることを言葉にしてアウトプットすること。
これら3つが言語の学習に欠かせないと感じている。

いくら英語力が高くてネイティブと遜色なくても、相手の世界を踏みいじるような言葉を発したら、その言語力は一瞬でパーになる。
ただ自分の力を見せしめるだけの言語学習では、非常に勿体ない。

公教育の英語教育では、もちろん子供たちの言語的な英語力を上げることは必要であると思います。言語は反復練習を繰り返し、時間をかけないと身につくものではないですしね。でもその目的は、グローバル人材になることではなく、広い世界のどこかにいる人に、リスペクトの心を持って、言語を用いてコミュニケーションをすること。そのために他教科との連携も考えられるし、文法学習も記憶するだけの文法事項から言語の仕組みを考える文法学習に変わることが必要かもしれない。難しいのは承知の上で、それらを知るだけで言語の深みや面白さにぐっと近づき、人生が豊かになる言語学習になると妄想しています笑。

学校現場にいるものではないので、妄想程度ですが、こんなことを布団の上で考えていましたとさ。


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