見出し画像

教育学部は井の中の蛙か?

少し刺激的なタイトルをつけてしまった。

まず、誤解を生まないように前置きをしておきたい。
まず、書き手の僕はとある地方国立大学の教育学部の出身である。ただ卒業後、教員はしていない。だから勝手なことを言ってたら、そーっと見下しておいてください笑。

そして、話の前提として、教員という仕事こそ、社会にどっぷり浸かる仕事だと個人的に思う。よく教員は世間を知らないとか言う人もいるが、絶対そんなことはない。様々な背景を抱えた子どもたちが、一気に教室に集まっている。教育のみならず、福祉のアプローチも必要になるだろうし、進路や保護者対応を考えても、いくつもの分野が混ざり合っている。社会の延長線上に、子どもたちの家庭環境や学校のあり方があるはずだ。

あとは、授業で教える科目。すべての科目は世界に繋がっている。そう思えば、井の中から飛び出し、社会という荒野を駆け巡るような仕事だと、外から見ると思うのだ。

ただ、そのような教員を養成する教育学部では、井の中にいるよう環境だった。
(※僕のちょー主観的な意見である。何を持って井の中と捉えるかは個人次第だろう)

まず入学してショックだったのは、外の大学や他学部との交流がほとんどなかった。部活やサークルで交流はあるにはあったが、日常的ではなかった。離れた場所に他の学部はあったが、大学のキャンパスには教育学部しか設置されていない。教育学部なので、みんなの関心分野が似ており、目指す職業も共通点があった。このような教育学部の大学は、全国に多いのではないか。まるで江戸時代の鎖国された侍のような気分だった。

つまり、このような環境では、外と繋がるためには、個人の力量に委ねられている。もちろん、留学にいったり、バイトを通して多様な関係性を築いたり、サークル活動で国籍関係なく交流している学生もいる。
そう、こうやって外と繋がることで、自分の中での変化が生まれ、他者との関係性が広がっていく。その先に社会があると捉えれば、外と繋がることは、社会にどっぷり浸かる教員になるための試金石となる。

逆に内々で盛り上がっていては、世界は広がらず、社会の輪郭に触れることもできない。
だから、教育学部が井の中的な環境になっていることは、私はすごく残念なのである。

さて、外と繋がることの要素として、2つあるかと、パッと思いついた。

1、自分の専門分野と異なる職業や価値観、関心テーマを持ってる人に出会うこと

2、自分の慣れた環境と異なるコミュニティにお邪魔をする。合えば入り浸ること

こんな感じで、閉鎖された空間でも、外と繋がることはできる。機会の提供がないなのが悲しいが。
と、散々言っているが、これに関しては数値で測れるものでもない。比較対象もないので、自分は今繋がってるなーと思えば、それで十分だとおもう。また何を持って、外と繋がるかだ。学部内でも、自分とは異なる他者と会う限り、それも外と繋がることになりえるだろう。今回の話は、内々の環境でも、関係性を深めながら、より外に飛び出してみないかという、訴えみたいなものである。そうはいっても、内々の環境も、大事だ。必ず人生の思い出になる。尖って孤立するなんてことは言ってない笑。
教育学部に限らず、内の世界に籠もることの危険性は、誰しもが該当することになる。うまーくバランスを取るしかない。

そして、このnoteを見ている教育学部はいないと思うが、社会の現場を調査しにいこう!
現場調査だ、略してげんちょーだ、だせえ。

百聞は一見にしかずということわざがある通り、この世は自分の五感で感じないと分からないことばかりだ。そして世界にも、日本にも社会課題は溢れている、問題は教育だけではない。また現場調査を受け入れてくれる人たちはたくさんいる。そこから関係性が生まれ、血肉となり、言葉の重みや心構え、思考に変化が生まれる。必ず教員になったときに、実用的ではないかもしれないが、見えないところで発揮されるだろうと、僕は信じている。
(思想が強まったら、すみません)

現場調査をしよう、教育学部生。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?