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「ちゃんとした」女の子

「ちゃんとしたお嬢さんね」と言われるのが、小さい頃好きだった。近所の人から、親戚から。両親はめったに褒めてくれなかったし、母は持病で入院がちだったから、コミュニケーションをとる機会があまりなかった。

両親との接点が薄い少女がおのずと評価を求める対象は「親以外の大人」になった。どうしても褒められたかった。存在価値を認めてほしかった。褒めにはいくつかバリエーションがあって、「しっかりしたお姉ちゃんね」「ちゃんとした娘さんね」「おうちのことを任されてて偉いわあ」などあった。つまりは母の代打として、姉らしく、家庭のことを取り仕切り、ミスを犯さなければ褒められるのだ、というのはよくわかっていた。

しかしそれはある程度の期間で効力が切れた。自分が自活するようになり、親元を離れてしまえば、「ちゃんとやる」は当たり前のこととなり、誰かからの褒めは発生しなくなる。わたしは指針を失った。指針を失い、これでいいのだろうか、これで正しいやり方なのだろうか、と迷ってばかりいた。それはすべて、自分の外に価値基準を置いていたからだった。自分の正しさというものを考えてこなかったからだ。誰かに自分の行動を見てもらい、点検し、評価してもらうプロセスを経ないと、わたしはわたしの行動に自信が持てなくなっていた。その矯正には、思ったより時間がかかった。

いま、わたしの娘はまだ1歳と5ヶ月で、まだ何もできない赤ん坊だけれども、それでも「ちゃんとした女の子」なんて目指さなくていいと思っている。もちろん公序良俗には違反してほしくないし、できればいい感じの、気持ちがいい人間として成長していってほしいけれど、わたしが歩んだような、誰かの評価を気にして優等生を演じるような、そういうことはもうしなくていい、と伝えたいし、そういう時代になっていくんだよ、ということを書いていきたい。わたしは、わたしたちは、自分のやりたいように生き、法律やルールを無視することもなく、バランスよくいろんなことを見聞きして熟考し、自分の頭と心で自分のこれからを決めていってほしい。

そういう、「決めていいんだ」「選んでいいんだ」「誰かの正しいに沿わなくてもいいんだ」というのを伝えていくことが、不惑の子育てでやらなければいけないことなんじゃないかなあ、と思ったりしているのです。

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