夢 その3

 私は雪道に投げ出されていた。夜も更け切った頃のことで、不健康に白い街灯の光と、それを反射して光る白い雪が夜の底に沈殿していた。私の腹部中心やや左寄り、丁度肝臓の真下あたりには黒光りする一本のナイフが刺さっていて、脈拍に合わせて流れ落ちる血液が、鮮やかな赤い川を足跡のない乾雪の上に作り出していた。私の体は糸が切れた操り人形のように地面に横たわっていた。骨折こそないものの、左膝は限界まで曲げられ、右手は背中の後ろにまで引き伸ばされて、弛緩し切った体の重みで今にでも押し潰されそうだった。白くなるはずの息は色を持たないまま大気へと散らばっていった。
 強張った左手をそろそろと動かして天に掲げると、程なくして掌が白く染まった。ぼやけた目を凝らすと、隠しきれないほどに青ざめた手と、しかし不釣り合いなほどに赤い動脈が浮き出ているのがよくわかった。冷たいはずの雪は今や私に対しての死化粧以上のものではなく、全てを漂白してしまう魔力だけがそこには存在していた。ゆったりと、しかし間断なく雪は降っていた。世界には私の耳鳴りだけが満ち満ちていた。オーケストラが発する442Hzのラの音のように、無音の中でなおも何かが始まろうとでもしているかのように、その音には終わりがなかった。
 ゆっくりと温度を失っていく体の中で、私は腹に刺さったナイフのことを考えていた。誰が刺したのだろうか。いつどこで刺されたのだろうか。疑問は果てず、答えはなかった。
 ふと足音がした。そちらに視線をやると1人の子供が歩いてきているところだった。ランドセルに背負われているような小さい子供で、道のりをまっすぐ見つめる黒い眼には光がなかった。さく、さく、さくと続く規則的な足取りは、雪道を歩く子供らしいたどたどしさなどは存在せず、死地に赴く歩兵のような悲壮さをも感じさせた。彼は道端の私に目をくれることもなく、その歩調を崩さないまま右から左へと去っていった。
 遠くなっていく子供の背中をぼやけつつある視界の中で眺めていると、体へにわかに影がかかった。正面に視線を戻せばそこには人型が立っていた。足元から首元まで黒尽くめの服装で、ひさしの深い帽子をかぶっているせいか表情は窺い知れなかった。徹底的なまでの白さの中で、彼は夜から生まれてきたように濃く黒く、くっきりとした輪郭を世界の中で保っていた。
 彼は音を立てずに私へと近づいた。そしてその黒い手を伸ばし、私の腹部、ナイフの柄を両手で捉えると、ちょうど雪が舞い落ちるのと同じぐらいのスピードで、緩慢に、しかし淀みなく、それを抜き取り始めた。焼けるような痛みが空気にふれた傷口から全身に走り、声にならない呻きが喉から漏れた。意識はさらに薄れ、世界は朧げな闇の中に消えていこうとしていた。
 耳鳴りの隙間に私は、目の前の口から私が発しているのと全く同じ音が漏れ出ているのを捉えた。驚いて表情を伺うと、苦痛から顔面を歪めて、荒く呼吸している私の顔がそこにはあった。私は、一人では始末をつけられなかった自分の不甲斐なさと、役目を果たす彼の労苦、そして子供が抱えてしまった罪を思い、閉じかけた眼から三滴の涙を流した。

再び目を開くとそこはいつもの朝だった。舌の上には微かに海に似た塩辛さが残っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?