月の大気

先生は剥がれた皮膚もはみ出した十二指腸も意に介さず、仮定法過去の用例を黒板に書き始めた。

I wish I could have taken up on 7 a.m. I wish I could have spoken English then.

「この文章みたいに、仮定法過去は必ずしもイフが必要ってわけじゃありません。動詞と助動詞の用法、そして込められたニュアンスを感じ取ったげることが大事なんです。例えばこの文章では……」

そう話している間に腸の先端はうどんのようにずるりと溢れて、今や教壇の桧にポタポタと血やら消化液やらよくわからない雫を垂らしていた。カツ、カツと、気だるい五限目の教室にチョークの音が響く。弛緩した空気を揺らす鋭利な音に合わせて腸はだらしなく垂れ下がり、しまいには先生の靴の上、そして木目の上に薄桃色のとぐろを巻いてしまった。鮮やかとも言い切れない色で表面はてらてらと光っていて触ったら押し返されるような張りのある質感と消化真っ只中の焼きそばらしきものが放つ臭気やスニーカーに付く黒めの染みが、と見たところで僕は手をあげて許可を取るのもそこそこに男子トイレの個室へと駆け込んで吐いていた。

掃除が行き届いている、というより使われていないがために白い大便器の朝顔に、吐瀉物はさっき見たような黒い染みを残して流れていく。ざらつく歯の裏を舌でなぞり、タイルに静かに寄りかかる。手のひらを刺すような冷たさに現実を認識させられて、一つ大きな息をついた。目を閉じれば木目に浸透しつつあった液体が眼窩に満ちていくような気がして、瞬きすら躊躇われる。

何が起こっているのだろう。クラスメイトたちは一人としてあの光景を異常だとしていないようだった。誰も声ひとつあげずに仮定法や昨日の夜の地震やら次回の対バン企画などに想いを馳せていて、むしろ急に去った友人に驚いているようでもあった。そもそもあの先生自体自分に起こりつつある事態に無自覚だった。痛みどころか彼の全ての感覚器官はさしたる問題を訴えていないらしい。消化器というのは口から肛門まで一続きの器官であって、皮膚がべろりとなることは一万歩譲って起こりうるとしても一部が脱落して垂れ下がるというのは致命の事実であることには間違いない。グーグルで調べた情報は役立ちそうにない。そこでやっと自分が幻覚を見ている可能性を詳細に考えられた。

タイルの目地のざらつきを撫でる。込み上げる吐き気を抑えながら、先ほどの情景をゆっくりと振り返る。幻覚とするにはあまりにもリアルな、いやだからこそ幻覚なのかもしれないが、ともかくも濡れたあの形がどうして僕の前にあらわれたのだろうか。昨日の夕食の野菜炒めに妙な茸でも入っていただろうか。もしくは知らぬ間にパーキンソン病やら統合失調症でも発症してしまったのだろうか。知覚した存在の圧倒的な非現実性に打ちひしがれて細部まで見ようとも考えなかったが、あの物体、言うなれば自分の体の中にもある物体があんなにも光っていることがなぜこんなにも恐ろしいのだろうか。なんにせよ戻って色々と確かめてみる他ない。自分と世界のどちらがおかしくなっているのか、とふと考えて、その考察が行き着く無意味さを目の当たりにした。

廊下の窓から見える曇り空は、冬めいた冷徹さを纏ってぼんやりと世界を翳らせていた。かと思えばカーテンのように侵入する光線が一筋遠くのビル群に差し込んで、モノクロの世界の遠近を微かに崩していた。誰もいない教室までの道のりは、しかし通り過ぎる教室から漏れた人々の声で静まり返っているとは言えない。ただその中でも自分の足音と心音が変に体内に響いた。その度に生きるというのはなんてにくにくしいんだろうと心の中で呟く。

迷いを振り切るためにわざと大きな音を立てる、つもりがそろそろと開けてしまった教室のドアの先には、少し驚いたような表情をしつつ腸を踏みつけている先生の姿があった。

「おい鹿島、お前大丈夫か。顔もかなり青いようだけど、」

先生の顔色は平常時と変わらない。ただ体重移動に合わせてぐじゅりと音が鳴る、その音に耐えかねてはっきりと大きく発声する。

「いえ大丈夫です、授業中すみませんでした」

「それはいいんだけど……まあいい、なら席につきな。具合が悪かったらこことか、保健室で休んでてもいいからな」

「ありがとうございます」

話している間にも先生が体をこちらに向けたために流路を変えた分泌液が上靴の底をじっとり濡らしている。拒む間も無く頭が勝手に迷路のような靴底を進んで冒す血漿やら胃液やらのイメージを再生する。席に戻るため教壇を降りると足音まで湿っていた。酸性の匂いが鼻につき、涙が勝手に溢れ出ようとする。椅子を跳ね除けたままの自席に戻ると、隣の席の友人が心配そうな顔でこちらを眺めていた。彼女の左の目が開かれたノートの上に落ちて少し転がった。一欠の視線が交錯した。


授業が終わり先生が教室を去ってもなお、脱落した腸について話しているクラスメートはいなかった。それどころか今や半分の生徒は隣席の友人のように体のどこかの部位や臓器を、滴る体液と共に落としている始末だった。学生だけではない。ホームルームを始めるため教室に入ってきた学級担任の先生はかすかに根元で繋がっているだけの右耳をぷらぷらさせながら教室に入ってきた。掃除の時間に横を通りがかった用務員のおじさんの鼻は先端が削れていて、幾分拡張された穴から暖かい空気を吹き出していた。夕闇迫る校庭ではアキレス腱より下を失った影がいくつも跛行を続けていた。けれども廊下に立ち尽くして眺めている僕の体におかしなところはなく、あくまで五体満足なのだった。鉄と酸とその他腐ったような甘ったるい匂いがぼんやりと高校全体を包んでいる。呼吸をするたびに誰かの生命が肺胞の一つ一つに入り込んでいくのが感じ取れ、その度に僕は僕であることを強く認識する。生きていることを確認するたびに、この悪夢のような事態が僕にとっては紛れもない現実であることを強く突きつけられる。赤茶けた理科棟のドアノブにはか細い血管が絡まっている。昨年買い替えられた靴箱はすでに黒ずんだ胆汁の手形でいっぱいだった。

「あ、ねえ、大丈夫?」

登校口で、汚れた上靴を仕舞っていいものか思案していると、突然背後から声をかけられた。振り返ると左目のない笑顔を浮かべて、隣席の友人—佐藤が一人で立っていた。残光がブレザーのポケットから抜け落ちている。アシンメトリーな表情は夜の中に移動しつつあった。「五限目から様子変だったけど」

「あ、いや、大したことじゃないんだ。昨日あんまり寝れてなくって」

「ほんと?それにしてはやばそうだったけど。」

「期末近いし、ストレスとかあれだから」

「まあそうね」

佐藤は左手を目元にやり目尻をしきりにこすっている、ように見える。足を失った人間が切断前にあった水虫の痒みを幻肢掻痒として感じるように、無い眼が痛みを訴えるのだろうか。

「あ、ねえ、この前の模試どうだった?」

「えっ?」

「十一月のやつ。私評論の得点全然でさあ、校内偏差値とか平気で四十切っちゃったんだけどさ、難しくなかった?」

「うん、まあ確かに論旨が掴めなかった気がする」

「やっぱそうだよね、うん。ああいうのってさ、なんというかいまいち私たちに近づいてないって気がしない?月みたいにさ」

「月?」

「そう、高踏派っていうの?漱石みたいなやつ」上履きを放り出すように脱ぎながら佐藤は続ける。

「月って、要するに地球の子供というか弟分みたいなものでしょう。でも綺麗なものっていうイメージばっかり持っててずるいと思うんだよね。I Love youを月が綺麗ですねって訳すことはあっても大地が綺麗ですねって訳すことってないじゃん」

「うん」

「で、そんな月はこの地球とか日本とか社会とか、そういうの一絡げにして冷笑してると思うんだよね、所詮雑事だ、みたいな感じで。問題で扱う評論ってそういう感じで、こっちのことを話してるのにこっちのことを馬鹿にしてるような気がしてなんだか腹が立つ」

「だから点がとれないってこと?」

「そう。全然実感湧かないんだよね」

はあともへえともつかない相槌が昇降口に吹き込んだ風に飛ばされてしまうと、それきり僕たちは黙り込んでしまった。片目がない、少なくともそのように見えていながら、佐藤は特段手先を彷徨わせることもなく靴箱のダイヤルを開けて、上履きを軽やかな金属音と共に投げ込んだ。話している間にも日は落ち続け、いつの間にか病的な色彩の電灯が月に変わって僕たちを照らしていた。沈黙さえも不自然な青色に染められている。横顔に空っぽの眼窩を抱えながら、しかしふと直感的に佐藤は僕にはない何かを持っているように思われた。それは多分彼女の睫毛が頬に落とす影だとか首筋にポツンとあった吹き出物だとか、何よりもあのノートに転げ落ちた白黒の球を彼女に重ね合わせた結果の着想なのだろうか。



佐藤の話す実感の湧かなさは僕にとってはぴんとこない話だった。繁華街へと通じる帰路に月明かりはなく、昼から続く曇天が街の光を反射してぼんやりと浮かんでいる。骨ばった指のような街路樹が祈る指の形をして立ち並んでいる。踏み出すたびにローファーがアスファルトを捉えて乾いた声を上げる。しかしそれでも僕は月の存在も青葉の季節も疑うことはなかった。見えないもの、懸隔したものたちは、だからと言ってないわけではないだろう。では今日見た、いや今すれ違ったサラリーマンだったり中学生だったりが抱えているあのグロテスクな脱落は結局のところ何なのかという問いが再び胸中を支配する。こんなことならさっき靴箱にいる時に佐藤に頼んで空いた穴を触らせてもらうんだった。もちろん自分が佐藤なら、大して仲良くもない人間が目の辺りに訳のわからない理由で触ろうとしてきたら何らかの下心や作為を疑うだろうけれど。しかし特定の誰かだけでなく今のところすれ違う全ての人々がどこかしら欠けていて、幻覚だとしても実害を免れ得ない程度まで広がっている状態はそれくらいの風評を覚悟してでもなんらかの解決をもちたいものだった。学校での凄惨さに麻痺していた嗅覚は、一月の風に感覚を取り戻されて、先ほどよりはマシになったと言ってもまだ顔を顰めたくなるような肉の匂いを嗅ぎ取ってしまう。道の先で煌びやかに光る繁華街はきっとひどい匂いを湛えているに違いない。ぼやけたオレンジの中を闊歩し這いずる人々のシルエットがビルの狭間に見えたような気がして、僕は人気のない路地へと歩みを切り替えた。

向かう方角は先ほどと大差ないが、古い住宅が密集する小道に入ると匂いは格段に収まった。古色蒼然とした、身も蓋もなく言えば薄汚れガタがきた、という言い方が似合う家々が都会的なビルの裏側に時代のコントラストを作り出している。何を売っているのか、そもそも営業しているのかも定かではない瓦葺の商店を覗くと、これまた何かも判別できない虫食いの掛け軸が置いてあった。やけに綺麗なコンクリートのビルがあるかと思えば、がらんとした室内を曇らせるガラス戸に大きく「テナント募集中」の張り紙が貼られている。表通りではちらほらと見えた通行人もここでは全く見当たらない。それでも引っ込んだ住宅と住宅の間には色褪せた産院や黄ばんだ病院が肩身を狭くして建っていて、やけに生々しい生活を垣間見たような気持ちになる。碁盤の目かと思えば袋小路があり、また蛇行した道があり、進むほどに僕は街の奥深くに飲み込まれていく気がした。

東へ、ただ東へと足を進める。やがてドン・キホーテやラブホテルの放つ煌びやかな光を纏ったバス通りが見えてくる。この通りを南に三ブロック進めば、地下鉄駅のそっけない入り口が見えてくる。家はさらに四つ先の地下鉄駅、そこから歩いて五分の一軒家。大きな建物ばかりが輝く道を、カーナビに沿って車を走らせるようにただ意思もなく歩いた。右手には今まで歩いてきた暗い住宅街。左手には彼らにとっての朝を迎え始めた居酒屋やバーやその他の群れ。右手には全てが一塊となって夜の底に沈澱しているような暗い生活の群れ。左手には一つ一つが輝き滴るような光と肉と分泌液を纏っている大小様々な人と建物たち。右足と左足は時速五キロほどの等速直線運動を僕に強制する。どちら側とも言い難い境界線上を、僕はそうして無言のままに歩く。歩く。歩く。止まった。

ちょうど駅の前。帰宅時間を迎えたゾンビのようなスーツが行き交っている。ある人は半分ほど割れた頭蓋から灰白色のタンパク質を少しだけ露出している。またある人の口は顎から下が乱暴に砕かれていて、暖簾みたいな舌で空気を味わっていた。しかし止まった足は彼ら彼女らの異形さのためではない。ある意味ではもっと異質なものとなった人間、つまりは見た目上何もおかしなところのない、普通の人間がいた。

地下へと続く長い階段の一段目に彼は座っていた。余すところなく黴びたスーツ、スーツというよりも背広という言葉が似合うそれに身を包み、野放図に伸びた黒髪と黒髭の中に白く濁った目を隠している。ただ革靴だけが妙に綺麗で、通り過ぎていく軽自動車やスジャータのトラックのライトを跳ね返して反抗的だった。しかし懐かしささえ覚えるそういった正常さを跳ね除けるほどに強烈なヒトの匂いを発していて、通り過ぎる異貌の人々は露骨に、あるいは良識的に、それぞれのやり方で顔をしかめては改札へと足を早めていくのだった。近づいてジロジロと——もちろんそれとなく見えるように——見回しても、彼の体に欠損や異常や液のシミはなさそうだった。髪のもつれがはっきりと見えるほどに接近して初めて気づいたのだが、彼はぶつぶつと何かを呟いていた。

「顎付近の皮膚全層と各種筋組織また舌下神経は全失し下顎骨の粉砕に伴う下顎小臼歯までの喪失と舌下神経は一部裁断の上舌下・舌深動脈の——」

流れていく言葉の全ての意味を取ることはできなかったが、どうやら彼もまた僕と同じような状況にあることがわかった。道ゆく人々をその濁った黒目で直視しながら、彼はひたすらに彼らの欠損を分析し言葉にし続けていた。春先のダムが作り出す滝のように端も見えなければ澱みもなく、ただ流れだけを作り出そうとしているかのように。感情を欠いた声が連なって階段を転がり落ちていく。双方向なコミュニケーションも意識の伝達もない純粋な発話だけが宙に浮かんでいる。その言葉に、彼自身に、五秒でも気を留める人間は僕以外にいなかった。僕は地下鉄入り口のガラスに寄りかかって、いつまでもいつまでも続く声に耳を澄ませた。革靴やハイヒールの乾いた音、滴る血液や髄液の湿った音が作り出す不作為なリズムの上で、指向性を持たないメロディーとして声があり続ける。

「頭皮全層と硬膜の全損・クモ膜の一部損失と前頭葉中心前回の逸流に加えて脳脊髄液の——」

 言葉のように透明な吐瀉が、動き続ける彼の口から漏れ出た。これまで感じていた匂いとはまた違う酸っぱさが、石質の階段に滞留し充満する。色のないそれはしかし、今日見たどの液体よりも人間染みていた。迎い入れ難い夜が静かに街を満たしきった。丁度鳴り始めた遠雷が冷たい冬の雨を予感させる。地下へ歩き出すかどうかを迷って、僕はそこに立ち尽くしていた。



一月が通り過ぎていく中で、僕の世界にはもう一つの変化があった。佐藤とよく話すようになった事だ。

あの日昇降口で話したのがほとんど初めての会話だったにも関わらず、彼女はその後も機会があるたびに僕の元まで来て、どうでもいいような語りを一方的に始めるのだった。彼女の見た目は顔以外特に普通の人間——世界が変わるまでの、という事だが——と変わっていなかったので、僕も何か匂いや汚れに気を使わずに話す事ができる唯一に近い人間として、話を安心して受け止めることができた。

 彼女の話題は本当に取り止めがなかった。駅前にできたシネコンの座席の座り心地が最悪だったことから始まった話が、次の瞬間にはジブラルタル海峡を誰にも見つからずに渡るための方法論にすげ変わっているなんてことはしょっちゅうだった。僕もそれに逆らうことはしなかった。なぜなら彼女は、おそらく話すこと自体を目的としていたからだ。何か建設的な議論を求めているわけでもなく、僕との間に言葉によるつながりを建設すること自体が彼女の目指すものらしかった。例えば教室から出てすぐの階段の踊り場で、溶けた雪が屋根から滴る学校の自転車置き場で、僕たちはこんな話をしていた。

「鯨って夏と冬で住む海域が違ってて、夏は危険だけど餌の多い地域、冬は安全だけど餌の少ない地域で過ごすんだよ。だから耳垢の構成成分も季節ごとに違ってきて、耳垢には年輪みたいな模様が刻まれるようになるってわけ」

「なるほどね。でも歳をはかれるぐらいの耳垢が、そんなに残っているものなのかな」

「それは大丈夫。鯨って耳の形が完全になくて、耳垢が出てこられないようになってるらしいんだよね。研究者が浜辺に打ち上げられた死体を漁って初めて、鯨は耳かきの気持ちよさを知るんだろうね。こんなにスッキリするものなんだ!って」

「なんだかありがた迷惑のような気がしなくもないけど」

「鯨もほっとしてるんじゃないかな。何せ自分が一生の間溜め込んで、どうしても外に出せなかった汚いものなんだもの」

 佐藤はゆっくりとした動作で小石を蹴る。小石もまたゆっくりと転がって、錆びついた自転車に音もなくぶつかった。小石も自転車も、あたかも最初からその位置にあったかのように無言で落ち着いている。

「そうかな。鯨がそんなことを考えながら泳いでるとは思えないな。北極海とインド洋のオキアミを食べ比べすることだって思いつかなそうなのに」

「いいじゃんそんなこと。私たちでさえ自分の実存やらなんやらを変な言葉で偉そうに喋れるんだから、私たちよりはるかに大きい鯨たちが、自分の頭のすぐ横にある歴史に興味を持ってても変じゃないでしょ。それで話は変わるけど、卵の殻の下にある薄皮ってさ——」

切れ目なく、しかし脈絡もなく続く彼女の話を聞いていると、僕はあの時昇降口で感じた、彼女が持っている何かのことを思わずにはいられなかった。佐藤の左目はあの日以来どこにもない。ふとした拍子に佐藤のブレザーのポケットから出てきてもおかしくないこの世界で、しかし佐藤はその欠損をなんともせずに話し続けている。一人で立つ佐藤の姿を見るたびに、僕は漱石が書いた小説中の登場人物のように、崖際へと少しずつ追い詰められているような気がした。語りの中のあらゆるストーリーが僕の脛を舐めていく。気配なんて全く感じられないのに、どこかで佐藤の左目が僕を覗き込んでいる。


雪が降ったり雨が降ったり不思議に晴れない一月が、僕の頭上をそれなりの速度で通過していこうとしていた。僕は電車の中で押せば返ってくる柔らかい肉に囲まれて学校に向かい、目を潰され歯が抜け落ち皮膚が爛れた級友と机を並べ、汁を滴らせる先生のもとで授業を受けた。不思議なことに、一人一人の欠損や怪我はどんなに重大なものであってもそれ以上に悪化することがないようだった。佐藤の左目は相変わらず抜け落ちたままだったが、そこに蛆が湧いたり膿が溜まったりすることもなかった。先生の腸は相変わらず床の上にとぐろを巻いていたが、踏まれようが裂けようが千切れようが、翌日にはまた健康的な桃色のままにふらふらと揺れ動いていた。

行き帰りの電車の中では常にイヤホンをつけて、周りが気にならないくらいの大きな音量で何かを聞いていた。雨垂れのタランテラ。光差すファンファーレ。しぐれたボーカロイド。曇り空のはっぴぃえんど。履き始めて一年も立っていないローファーはここ数週間でじっとりと重い光沢を帯び始めた。欠損は滲み出た血漿となって、ゴム製の床を通してスーツから僕の足へと伝播しているように感じる。僕は音楽へ没入することで靴下のぐずぐずした湿り気を外へと追いやろうとする。目を閉じ、電車の揺れもサラウンドな滴りも忘れて、僕の形を保とうとする。しかし電車を降りようと顔を上げた瞬間に、ささやかな努力は一瞬にして無化されてしまう。スーツに包まれた肉と涙が出るほどの臭気が、背けていた顔を覆うようにのしかかってくるように思われる。向かうべきドアが遥かな遠みにあるように感じられる。

そして僕は学校へ向かい、家路に就く。途中にはあのホームレスが必ずいる。彼は初めて見た時と変わらない姿勢で階段に座り込んだままただひたすら呟き続けている。言葉を吐き続けることそのものが、彼の唯一やるべきことであるとでも無言のうちに主張するように、僕には見えた。横を通り過ぎる時に感じるのは、電車内でも学校内でも感じないあの独特なヒトの匂いだ。僕と同じ境遇にあるはずだが、話しかけることはしなかった。理由の一つには彼の風体が少し僕たちの日常から乖離しているおかげで、会話を試みるには心理的な障壁が高かったことが挙げられる。しかし最も大きな理由は、僕がそちら側の乖離に飲み込まれるかもしれない、という考えがあったことだった。仮に彼と僕の見ている世界が同じだったとして、僕はこの酸鼻極まる方の世界に戻ってこられるのだろうか?生活の変化や日常の放棄といったわかりやすい話ではない。もっと心情的な、それでいて非常に重要な、生き方そのものの話だ。


コーヒーを飲むことが格段に増えていった。高校の前にあるコンビニで無愛想な店員からカップを受け取って機械にセットしスイッチを入れる。三十八秒で出来上がったものを歩きながら飲めば、帰り道は少なくとも匂いを気にせずにたどることができる。生活は確実に侵食されていて、自分が変わることでしか自分を守れないのが歯痒かった。手元にある黒い液体は異状となって体内を変革していく。濃い目のコーヒーなんてこれまで選ぶことはなかった。それは幼い記憶の中の父親が纏う煙草や酒の匂いの滞留の中に存在する遠距離のものであって、輪郭だけを仄かに嗅ぎ分けることのできる概念に過ぎなかった。けれど遠さというのはすでに過ぎ去った世界の中に仕舞われたものとなっている。無明の中に漠然とあったものは今や触れられる程度の近さにあり、もはや見ているだけでは過ごされない。息を吐けば境目のない夜の中に白さが浮かんでは溶けていく。日は落ちかけようとしている。



佐藤との時間は相変わらず不思議に過ぎていく。あの変化が起こってからちょうど一週間ほど経った日の四時間目に、僕たちは校舎内の階段の一番上、屋上に続く踊り場で静かに昼食をとっていた。本当は立ち入り禁止であるこの場所は佐藤お気に入りの隠れ場所らしい。何から隠れるのかを聞いてみると一言「すべて」と返事があった。

立ち入り禁止になっている理由はわからないものの、隠れ場所になる理由はなんとなく想像できる場所だった。学校で使われなくなったであろう家具がたくさん集まっている。バネの飛び出た赤いソファ。錆びつき、黴にまみれたバリトンサックスのケース。足の一つ欠けた学習机。木製の天板には彫刻刀で相合傘が刻まれている。片隅に放られた壁掛け時計はまだ微かに動いていて、不正確な秒を確かに伝えている。置かれたもの全てが然るべき時間と死を持つこの場所は、音さえもが飲み込まれてしまったかのように静寂に包まれていた。南中時刻は少し前に過ぎていたようで、外へと続くドアの窓から差し込む西日が、薄く立ち上る埃の中で線となって足元を照らしている。うんざりする血の匂いも赤黒さもここにはない。

佐藤の黒髪が軽く揺れた。ハムときゅうりのサンドイッチ(朝に自分で作ったらしい)を食べ終えた彼女は、音もなく立ち上がって僕の正面に仁王立ちする。そして手を伸ばし、僕の鮭おにぎり(こちらは親に握ってもらった)を掴もうとする。

「君はもう食べたでしょう。わざわざ僕のに手を出すぐらいなら、もっと作っとけばよかったじゃない」

「鹿島くんは何もわかってないね。育ち盛りの女子高生ってやつをさ」

彼女はそう言いながらなおも手を伸ばしてくる。僕はその手首を掴む、寸前で彼女の袖口をはたく。白々しく顔を歪める彼女に取り合わずに、僕は最後のおにぎりを一口頬張った。

「そうやって目の前の飢えを放置して、鹿島くんは無為に満たされていくんだね。ピューリツァー賞の話みたいだよ。ハゲタカと少女のやつ」

「まず第一に君は飢えてないし、このおにぎりは僕のものだ。そして第二に話を無理やり大きくするのは有名な詭弁の論法だ。君が知ってるかどうかは僕にはわからないけれど、自分から友達を減らそうとしたいのなら止めはしない」

「私の成長を阻害することが君のやりたいことだっていうんなら、まあ別にいいけどさ」

 別に、をたっぷり二秒はかけて言ったのち、佐藤は近くにあった背もたれのない椅子に座り込んだ。耳をすませば階下から微かに授業の声が聞こえてくる。これは英語の授業だろうか。生徒が読み上げる文章の断片が秒針の動く音と共にある。

——"If you want to look at my feet, say so," said the young man. "But don't be a God-damned sneak about it." "Let me out here, please," the woman said quickly to the girl operating the car...——

佐藤は途切れ途切れに聞こえる声に耳を傾けているようだった。軽く伏せられたまつげから見える目線は何もない机の上に置かれていて、しかしあるはずもない何かの幻影を追っているようにも見えた。少しの間をおいて、彼女は先ほどよりも一段重く口を開く。

「ねえ、この前のさ——」

僕は途切れた言葉の続きを待つため、佐藤の顔の方を向く。彼女のブレザーの肘はほんのり白く染まっていて、そういえば靴箱であった時にも不自然に埃っぽかったっけと思い出す。言い淀みは長い。言葉が一生を終えるほどにも思われる。

「この前の、何?」

痺れを切らしてそう聞いても、彼女は何も言わない。

——He glanced at the girl lying asleep on one of the twin beds. Then he went over to one of the pieces of luggage, opened it, and from under a pile of shorts and undershirts he took out an Ortgies calibre 7.65 automatic... ——

 佐藤は決意したような右目でこちらを見すえた。手は軽く握られているように見えた。引き絞られていた唇が開こうとしたそのとき、授業の終わりを告げるチャイムがなり出した。重みのある音が鳴るたびに彼女の口内にあった言葉はため息となって出てきた。そうしてゆっくりと息を吐き切った後、彼女はそれまでとは打って変わった明るい表情になっていた。

「ううん、なんでもない。本当に取るに足らないことかもしれないしね」

 言い終えようとしながら、佐藤の足はすでに階段を降り始めていた。ざわめく下階へ軽やかに向かう彼女の背中にぶつけるべき言葉を、僕はどこにも持っていないような気がした。


「ねえ、せっかくだしちょっと付き合ってよ」

 一月も終わりを迎えようかというある日、校門を出たあたりで佐藤が話しかけてきた。見慣れた頽廃的な人々に紛れながら、彼女は僕のことを待っていたらしい。日はすでに傾き、東に聳えるビル群の間に残光が残るのみで、同じ方角でわずかにベテルギウスが光始めているのが見える。冷たい風の中で残雪は硬く凍り、僕や人々の足をいたずらに滑らせていた。

「君って一番町駅から電車乗るんであってるよね」

「そうだけど、それが?」

「いやいや、ちょっと一緒に歩いてもいいかなって。少し誰かと話したい気分だったんだ」

僕のことを待っていたんじゃないか、という言葉はなんとなく言わない方がいい気がする。佐藤が歩き出すのを待って、横に並ぶ形で歩き始める。僕よりも十五センチほど背の低い彼女の歩様に合わせて進む並木道は、しかしいつもよりも早く過ぎ去っていくような気がする。彼女は話したいと言いながらも口を開かなかった。薄く張った氷を踏む鋭い音が言葉の代わりに沈黙を埋める。そのうちに日は完全に落ち切って、青白い街灯の光が暖色のタイルと寒色の霜とを同時に照らすのがわかるようになる。僕らは灯りと地面との間にあってどちらでもない曖昧な制服に身を包んでいて、そのせいかどことない居心地の悪さを感じている。ざくり、という音が右の木立を抜けてどこかに消える一回一回ごとに夜が深まっていく。

帰宅時間の最中にも関わらず、通りを歩く人間は僕ら以外にはいないようだった。そのせいかいつもなら漂っている生臭さが嘘のように消えている。時々車が二人だけの空間を壊しては去っていき、同時に僕ら二人だけが道を歩いているという事実を浮かびあがらせる。ざくり。季節は春へと向かいつつあるらしいが、本当に花開き麗らかな日はやってくるのだろうか。目の前にあるのは冷え冷えとした絶対的な冬だけだ。

「鹿島くんはどうして、私に何も話さないのかな」

 何十度目かのざくりを僕が立てた瞬間に、彼女は予兆も見せずにそう言った。ふと横を見ると真っ直ぐ前を見つめた彼女の顔がある。今日初めて見る横顔のような気がする。

「ごめん、もう一回言ってくれるかな。少しぼーっとしていて聴き逃しちゃった」

「だから、鹿島くんはどうして私に何も話してくれないのかな」

あくまで断固とした姿勢が固い語勢から伺える。しかし前を見据え続ける横顔から、それ以上の情報を見出すのは難しそうだ。歩みは止まらない。また一つ二つのざくり。

「鹿島くんと最近割と会ってるけど、いつも私が話すばっかりで、君の方から何かを話してくれたことって一回もないよね。いや、それが嫌なんじゃなくて。ただ単純に、どうしてなんだろうって思ってさ」

深まる夜を瞬きで咀嚼しながら、話が転がっていく方向を見定めようとする。

「特段、話さないでいたつもりはなかったな。もちろん佐藤さんと話したくなかった、とかそういうことじゃないよ。ただ君の話の流れについていくのが精一杯だったってぐらいな気がする」

「私が一方的に話してるってことに責任があるっていうわけ?まあそうかもしれないけど。でも、君が会話の中で話を打ち出したことがないのは事実だよね」

「そうだとしても、単なる偶然の範疇に過ぎないことだと思うけどな。それに君の話をただ相槌だけ打って過ごしていたわけじゃないでしょう?」

「そうだけど……」彼女は立ち止まった。俯いて言葉を探しているように見える。車が数台風を立てて走り去っていった。声にならない声が、切り裂くようなヘッドライトの通過に照らされては形を失っていくようだった。夜の冷たさが汚れたローファー越しに静かに体を満たしていく。佐藤にもその寒さは忍び寄っているらしく、少し身震いをするのがわかった。佐藤は右目だけできっと僕を睨む。それと同時に口を開く。

「私は、鹿島くんのことを心配しているんだよ」

ざくり。

「君と初めて話したあの日、君が授業中教室を急いで出ていったあの日。君がどんなに酷い顔色をしていたかわかってる?親類も友達も何もかもいっぺんに無くしたみたいな暗くて散々な顔だったよ。でも君はそれについて何も言わなかった。私が話しかけたのは、そんな君が心配だったからだよ」

「次の日には体調も戻ってるだろうって思ってた。だけど君の顔色は相変わらず酷くて、結局一月の間ずっと酷いままだった。他人の私にも伝わってくるんだから、鹿島くんだって自分に変なことが起こってるんだなってことはわかってたでしょう?」俯いて、何かの重みに耐えているようでもある。

「でも君は、何も言わなかった。何も話さなかった。ただ自分の中に抱え込んでてもいいことなんてないのに。ねえ、教えてよ。君は何がそんなに辛いの?何の中でそんなに苦しんでいるの?教えてよ。私と、話してよ!」

ほとんど地面に吐き出すような格好で彼女は言葉を発していた。道はいつの間にか元のアスファルトの質感を取り戻していて、長く続いてきた並木も終端が見え始める。彼女は顔を上げる。

「それは——」

しかし僕は彼女に応えない。応えられない。普段通りの軽口を何気ない口調で返すこともできない。前傾姿勢を戻し右の強い眼光でこちらを射抜いている彼女の顔を見ることができない。握られた佐藤の手を取りこちらに引き寄せることも彼女の髪に触れることもできない。彼女がどこかにおいてきた左目を見つけることもできない。踏みしめてきたこれまでの道のりを振り返ることもこれから進む駅までの道を見ることもできない。なんでもない風を装って微妙なバランスに調整された笑顔を浮かべることもできない。寒いねと言って取り合わずに歩き出すこともできない。言葉を話すために用意された唇からため息をつくこともできない。そして、できないことを彼女に伝えることもできない。不可能が大河のように横たわる。

 三回だった。三回、通り過ぎる車のヘッドライトが僕らを照らしていった。先ほどまでと同じ、しかし全く違う意味に変質してしまった沈黙が、五十センチほど空いた僕らの間に圧倒的な懸隔を産んでいた。

 佐藤は鋭く目線を切った後、何も言わずに元来た道を戻って行く。振られる両手が親指から順に黒く壊死して灰色の氷の上に落ちていくのが見える。白く小さい指の骨が散らばっては冬の空気の中で軽く硬質な音を立てる。やがて肘から先が上腕が肩が鎖骨が落ちてブレザーが重い色に染まり始める。骨も筋も肉も、地面に落ちて湿ったり乾いたりする音を出した瞬間に消えていく。滴り落ちた液体だけが湯気を立てて水溜りを作っている。佐藤の背中がどんどん遠くに消えていく。夜はとっぷりと更け吐き気は胸の辺り喉のあたり舌の辺り口に当てた両手のあたり手を伝って腕のあたり膝の辺りアスファルトのあたりに落ちる。佐藤の匂いと僕の匂いが入り混じり、辺りはすっかり非日常に変わってしまった。


ひたすらに歩く。ひたすらに歩く。入り組んだ住宅街の小道を抜け、煌びやかなバス通りを抜け、ゾンビめいた人々が闊歩するオフィス街を抜ける。人々はもはや人間としての形を保っているかどうかも怪しい姿になっていた。下半身を無くした初老の男性は腰のあったあたりから大便とも消化液とも判別のつかないものを垂れ流しながらスマートフォンで日経平均株価を調べていた。頭部と両腕を無くした女性らしきスーツは血と脳漿にまみれたショルダーバックをなんとかして肩にかけようと苦心しているようだ。下半身だけの幼児は断面に綺麗に被さったスモックを赤黒く染めながら母親を探して彷徨っている。僕は歩いた。いちいちその醜態を見ている暇はなかった。目的の人物は、あまりにもあっさり見つかった。地下鉄の入り口で、階段の下を見て目を剥いたまま立ち尽くしていた。もはや彼の酸っぱい匂いなど気にならないほどに周囲は赤く染まっていたので、躊躇なく近づくことができた。

「あの、」

背後から声をかけると彼はびくりと肩を震わせた。振り向くことなく、なんだ、と声がする。

「見えてるんですよね、このひどい世界が。僕もなんです」

彼は何も言わない。ぴちゃりと音がなったので階段の方を見れば、高校生らしい背骨を失った男が、制御の効かない四肢を必死に踊らせて下へと進んでいくところだった。

「この前ここにいらっしゃった時、あなたが周りの人について話しているのを聞きました。頭蓋がなんとか顎がなんとかって。それって周りの人間のことでしょう。あなたも、僕と同じように世界が崩れて見えてるんでしょう。ねえ。そうなんでしょう」

 僕は話しかけ続ける。だんだんと彼に近づいていく。

「あなただって自分がどうしてそうならないのかって思っているんじゃないですか?そうして少し羨ましい気持ちで彼らを眺めてるんじゃないですか?自分の肝臓や脾臓や膵臓や腸や膀胱や精巣や、網膜や耳小骨やなんやらが、どうしてみんなみたいに露出してくれないんだろうって思ってるんじゃないですか?気持ちは痛いほどによくわかりますよ。でも僕はああはならない。あなただってああはならない。こっち側に居るままなんですよ。そうですよね?わかってますよね?」

彼はブルブルと震えながらも何も口にしない。ちぢれた長髪が真っ青な横顔の上で激しく揺れる。にわかに吹き始めた強風が僕の胸を押している。抗って立ち続けるために僕は出しうる限りの力を使わなければならなかった。しかし彼は顔こそ青いもののしっかりとした姿勢で立っている。憧れ嫉妬するほどにまっすぐな姿勢のままだった。僕は彼のくすんだ背中に手を伸ばした。しかしその手は届かなかった。いや到達させることはできただろう。なぜなら彼は一歩もその場から動いていなかったからだ。失速し行き場を失っていたのは僕の手の方だった。このまま肩を掴んでこちらに引き寄せようとも、僕の望む結果には一切近づくことができないだろう。それどころか大きな失望が待っていることすらありうるんじゃないか。自分ですらわからない期待が自分ですらわかっていない行為によって、自分ですらわからない方向へ失墜していくんじゃないか。

彼はゆっくりと振り返り、そして繁華街へと続くアーケードへ歩き出した。一度も僕を見なかった。風が強く吹いている。もはや止まりそうもない。



気づけば僕は自宅の布団の中で膝を抱えて寝転んでいた。冬の寒さから僕を隔ててくれるはずの布団はやけに冷え冷えとしていて、自己完結的な暖かさの中で夜を凌ぐしかない。それはとても異質で、僕の求めていたものとは全く違う暖かさだった。あらゆる世界が、急速に色を失っていくような気がした。血の鮮烈な赤色も、胆汁の煮詰めたような茶色も、爪の無機質な白色も、全て今の僕にとっては同じものだった。そして僕もそれらを抱えているにもかかわらず、僕からはるかに離れた世界のものだった。夢を見よう。そうして忘れてしまおう。願うたびに強い風が窓を揺らし家を軋ませる。僕はしっかりと目を閉じ耳を塞ぎ口を閉じ息を止めて、外へと出せる全てを僕から追い出そうとする。


 そして僕は夢を見る。


大きな月が一つ空にかかっている。夜は藍色一色で、どこまでもどこまでも続くのっぺりとした色彩に変わっていた。月には一つ長大な梯子がかかっていて、果てしなく続く木製の足掛けが静かな脈動を繰り返している。あたりには何もない。世界には僕と月と梯子しかない。地面でさえここでは曖昧で、存在を確かめようとしても曖昧な硬度しか返ってこない。いや僕でさえもここでは曖昧だ。指先は下手くそな水彩画のようにぼやけているし、少し腕を振るだけで滲んだ残像が透明な空気に残ってなかなか晴れない。確固たるものは目の前で一筋の線となっている梯子と終端にある月だけだ。

 音のしない一歩を何度か行って梯子に足をかけると、生き物と同じ生温かさが裸足に伝わってきた。生木のそれはツルツルとした表面で、こんなもので本当に上がっていけるのかと不安になる。しかし僕にできることと言ったらそれぐらいしかない。今は一段ずつ登っていくことしか、僕にできる選択肢はない。

思いの外しっかりとしつらえられた梯子を着実に登っていく。もともと曖昧だった地面はとうの昔に地平線の辺りから空と溶け合って消えていた。目に映るのは梯子と月だけだ。手を伸ばし足をかける僕の体さえ、もはや確実なものではなくなっている。息遣いだけは残っているのできっと僕はいるのだろう。いやそれすらも僕がいると思いたいからいることにしているのかもしれない。たまたま、ここで梯子を登らなければならないと思った僕がいただけであって、僕が登っていること自体の意味は大したものではないんだろう。それでも僕は登り続けた。月まで辿り着けば、きっと何かがある。少なくとも月はある。たとえ辿り着けなくても、この梯子だけはある。風が強く吹いて僕を突き落とそうとする。確実でない僕の体は風圧に耐えかねてどこかに飛んで行こうとする。それでもぼやけた手と足を必死に動かしている原動力は、確実なものへの強い憧れだった。


 どのくらいが経っていたかは定かではないが、それでも終わりは唐突に訪れた。月は見ていたままの無機質な、しかし今や確実な存在感を持って僕の足元に存在していた。燐光が舞い上がる砂塵と共に僕を足元から照らしている。ここはとても静かで、あらゆるものが脱臭化されている。陰惨な血と肉が溢れる下界とは大違いだと考えて、それは一体どこのことなんだろうと思う。あんなにも曖昧で漠然とした世界から、梯子で登ってきたじゃないか。

光は強まりも弱まりもせず、一定の光度を保っている。昏い場所から来た僕の体は、いよいよ確実さの中で崩れ去っていく。まずは鼻が落ちた。軟骨がぐずぐずと膠着力を失って、力尽きたように砂塵の中に埋もれた。洟水がとめどなく溢れ、口に流入して歯を根本から押し流した。けれど口は硬く閉じられていたので、行き場を失ったそれらは舌の上を通って咽頭の方へと移っていった。歯が通っていったところから、ネジが緩んだように次々と脱落していく。舌も顎も喉仏も甲状腺も、極度に柔らかくなった皮膚と筋肉を突き破って外に出ていった。洟水はそうして僕の体を解きほぐしていって、ついには僕の脳だけが月の埃の上で静かに置かれていた。


 

 

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