夢 その2

 私は地下鉄の座席に座っていた。規則的な電車の揺れと、窓の外をリズムよく通り過ぎている青白い電灯。銀の手すりに煌めくその光と、車輪が不規則にたてる甲高い音が、不健康な車内灯が照らす車内の秩序を支配していた。同じ車両を見回しても、私以外に乗っている人はおらず、ただ少し擦り切れた青い座面だけが整然と並んでいるだけだった。恐る恐る立ち上がると、存外に冷えた空気が頬を撫でた。着ていたコートのどこかにくっついていたボールペンが乾いた音を立てて床に転がった。

 そこそこのスピードで進んでいるはずなのに、車両はほとんど揺れずにすべるように走っていた。窓の外に流れる単調な光の脈動以外に、私自身の速度を感じさせるものはなかった。進行方向がわにあった、隣の車両へ通じるガラスのスライドドアから奥を伺うと、電車がゆるやかなカーブを描きながら進んでいることがわかった。先頭車両まではかなりありそうだった。無機質な座席の表情。

 突然後ろから湿った音がした。何か液体を孕んだ柔らかいものが、自分の体を床に引きづらせながら進んでいるような音だ。緩慢ではあったが、すこしづつ、すこしづつ、音源は私に近づいてくる。

 

 意を決して後ろを振り返る。

 

 何もいない。けれど音は止まらない。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり……

 

 耐えかねて、後ろ手にドアを撥ね開けて、私は音から逃げ出した。荒く吐き捨てた息の音は硬質な床に反射して、止まっていた車内の時間を動かしている。ドアを開けて次の車両へ、手すりをつかんでドアを目指して、ドアを開けて次の車両へ、手すりをつかんでドアを目指して、またドアを開けて……一つドアを開けるたび、あの音は少しずつ小さくなっていった。しかし私は見えない音源への恐怖に突き動かされるように、次の車両へ、また次の車両へと移っていった。息は切れ、足は鈍くなり、腕には痺れを感じるようになるまで、私は走り続けた。

 どれくらい走っただろうか。どれくらいの車両を過ぎただろうか。私は席にへたり込んだ。窓の外の風景は何も変わっていなかった。走っている間には永遠に思えた時間の感覚が、規則的な電灯の拍動を見ている間に戻ってきた。これだけ走れば少しは距離を離せただろうか。大きく息を一つ吐いて、目線を下にやる。何かが床に落ちていた。

 ふと拾ってみると、それは先ほど落とした私のボールペンだった。

 疑問と共に顔を上げると、いつの間にか車内案内板が光り始めていた。次駅表示には総天然色会議と書かれており、どうやらまもなく到着するようだった。私は少し安心して浮かしかけていた腰を下ろし、いつの間にやら隣にいた彼の生温かさを感じながら、少しだけ目を閉じることにした。


 ふと目を開けると朝だった。

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