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『石蕗南地区の放火』を読んで① 僕の弱者男性論

吐きそうになった。フィクションとわかって読んでいるはずなのにここまで刺してくるのか。

 『石蕗南地区の放火』は『鍵のない夢を見る』という短編集に含まれているひとつの短編である。
 あらすじはこう。主人公・笙子は公用物件の保健事業を行う財団法人に勤めている36歳の女性。親からは結婚を急かされるが本人はお見合いを会わずに拒否するなど、結婚しなければという焦りがあるわけではない。むしろ、「そんな態度だからこそこの家を出た」と言っているように両親の旧時代的な価値観に厭気がさしているといった形だ。
 そんななか、消防団の詰所で火事が起きる。笙子の勤めている財団法人では、火事が起きた場合調査に職員が出向くことになっており、笙子が出向くとそこにはかつて言い寄られた消防団員の大林という男がおり...という内容。

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※以下ネタバレあり

 この大林という男の「弱者男性さ」がひしひしと伝わってくる。弱者男性さ、というよりはモテなさ。そしてその奥にある幼さである。
 大林は、消防団員が笙子を飲み会に誘ったことで知り合うことになり、連絡先を交換するに至る。その後メールをやり取りすることになるのだが、はっきりと笙子は「脈なし」である。(そもそも連絡先を交換する過程でもかなり笙子は渋がっていた)
 デートに誘うメールを送った後、笙子は「毎日仕事が遅くて約束できません。ごめんなさい。」といったようなメールを送っているのだが、大林はそれでも「暇になればその日に電話が欲しい、土日なら空いていないか」というようなメールを返している。そしてその後自分の猫に関する「追い長文メール」をする。
 結局デートをすることになるのだが、最初は目を合わせることもできず、服装も英単語入りのニット。ダサい。その後話すとなっても、周りから結婚を急かされているというような話やキツめの(いわゆるおじさんっぽい)下ネタを話す。挙げ句の果てには電車でスタバを飲んでいた女子高生に「ちゃんと持ってもらえますか」という注意をする。キツい。

 この大林という人物、僕にはとても見るに堪えない。笙子の目線にたって辛いというのもあるだろうが、ここに「幼さによる想像力の欠如」を感じてしまうからだろう。
 先程弱者男性、と表現したがこれは不正確かもしれない。大林は役所に勤めており(世間的には安定した職業とされるだろう)消防団では一番の年長で形の上では慕われている。自分に自信がなくて毎日孤独に生きているというようなステレオタイプの弱者男性とは違う気がする。

 しかし、他人の気持ちを想像して、考慮するのが下手くそなのだ。脈なしで、自分のことを拒絶している女性に長文のメールを送ってしまう。その女性が自分に合わせてくれただけで、猫のことが嫌いだなんて想像できない。自分が結婚を急かされているという話は同年代で同地域に住んでいる相手にもきっと当てはまって、その話をすることは相手を傷つけることだという想像ができない。女子高生に対しては論外。誰だって横にいたくない。
 悪気があるわけではない。だからこそタチが悪い。「優しさ」から美味しい中華街の店を好きな女性に紹介したいと思っているだろうし、女子高生への注意も「善いこと」として行なっている。
 しかし、自分が思う「善いこと」や「優しさ」でも、受け取る相手にとっては「善いこと」ではないかもしれないし、「優しさ」ではないかもしれない。
 そんな当たり前のことだが、おそらく我々は共通認識としてこのことを「子どもが、大人になるに従って気づくもの」として捉えていて、だからこそ「良い大人」が幼かったら「キモい」と感じてしまうのだろう。

 ではなんで、彼は人間としての成長ができていないのだろうか。一つ想定されるのは「若い時に恋愛をしていなかった」ということである。人間が人間に対して一番向かい合う瞬間は恋愛ではないかと思う。他者に対しても、自分に対しても。
 好きな異性ができればその異性の好きなタイプはどんな人なのだろう、逆に嫌いな人はどんな人なんだろう、と人は考える。振られたら自分を見つめ直す。どこが悪かったのかな、あの発言が良くなかったのかな、あの行動が良くなかったのかな...?そのように受け入れられたり拒絶されたりしながらなんとなく他人を慮れるようになっていくのではないかと思う。
 恋愛、と限っているのは少なくとも男社会においては(女性の場合は少し事情も違ってくるかもしれないが)多少人の気持ちに無自覚であっても、「面白い」として許容されうるからだ。そして、同性の友達何人かに拒絶されたとしても(そもそも明確に拒絶される、というのが友人付き合いの場合はシーンがない)、自分を反省しようとはあまりならないと考えられるからだ。
 だから大林という人間はここまで自分の自信を損なわれることなく生きてきた。しかし、それは客観的に見れば「空気が読めず、デリカシーのない承認欲求モンスター」である。
 あまり承認欲求には触れていないが、この大林という男、後輩に自慢話をしまくる典型的「嫌な上司」であるばかりか、一連の事件の放火魔である。その動機については後で触れるとして、「女性にモテてこなかった」ので承認欲求も肥大化したのだろう。彼の発言から察するに、友人も結婚し、会う機会も減っているはずだ。

 「童貞はキモい」と大っぴらにいうと、反発されるだろう。当たり前である。人間も一つの属性で括って評価するなんて、ナンセンスもいいところである。しかし、なぜ童貞はキモいとされるのか?僕の現時点での仮説では「人の気持ちがわからない」から、そしてそれを自覚することすらできていないからである。
 そもそも、人間が他人の気持ちを完全に理解するのなんて不可能である。デリダの哲学で、同じ言語の言葉だって話し手と聞き手でその言葉を習得した過程が違うのだから、伝えたい内容は完全に同じではない、といったようなものがあるが、同じ「悲しい」でも、その悲しいがどれぐらいのものなのか、どの種類のものなのかを知るのは不可能である。聞き手は全く同じ体験は絶対にできないし、感情は比較で決まるはずだからその比較元となる体験は全く違うものだろう。

別々の空を持って生まれた記憶を映し出す空
君には君の物語があり僕の知らない涙がある

Aqua Timez『虹』

 しかし、人間関係が少なければ、自分を変えたいと思ったり、他人を分からない中で解りたい(理解したい)と思った経験がなければそんなことは気づけないのだろう。自分を見つめなければ、世界は自分だけのものである。子どもは道案内をする時、自分の家からの道順を言うらしい。

 大林の見えている世界は、案外いいものなのかもしれない。運が悪く、女性に縁がない気がするが、後輩には慕われている。居心地の良い空間はある。承認欲求には足りない気がするけど。なんでだろう。
 ただ、見えていないものがもし見えたら、絶望するだろう。自分はモテていないだけ。後輩にも陰口を叩かれている。

 しかし、我々は大林がまだ見えていなかったものを見せられてしまった。辻村深月によって。ありありと。
 だから、我々には選択肢は無くなってしまった。他人と向かい合わなければならない。自分と向かい合わなければならない。

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