Case

Creepy Nutsのフルアルバム「Case」が今日発売になった。朝目が覚めた私は、大好きな彼らのアルバムと前日のラジオを聴けなかった。以下、起き抜けに残したメモ。

「なんか、なんか、Caseを聴けない。ラジオも聴けない。なんだろう。何が怖いんだろう。ラジオでやっぱり波物語の話を少ししたんだと知って途端に怖くなってしまった。大きな感情を受け止めるのが怖い。聞けない。MUSICAの「Creepy Nuts前史」も読めないし、テレビ出演も積極的に追いかけようと思わない。いや、追いかけたいし読みたいし聞きたいんだけど、自分の心の中で何かが起こる気がして怖い。何か起こるなんて当たり前なのに。言ってたもんCaseが誕生したら世界はひっくり返るって冗談めかして。」

リリース日という素晴らしい日にこんな状態になっている自分が嫌だった。アルバムを聴けば変わるかと思って、テンションを上げるために化粧をしながら、意を決して一周したけれど、特に気持ちは上向かなかった。ラジオは聞く気になれなかった。何をしても暗い。私はなんとか自分を立ち直らせるために、まず外に出て、とにかく思いつくままに動くことに決めた。

大学で借りていた本を返しに行った。そのついでに、勉強しようと思っていたホロコースト関連の本をいくつか借りることにした。古くさい紙の匂いのする書庫で、つま先から頭上までそびえ立つ本棚に囲まれると、私はとても気持ちが安らぐ。本が棚にぎっしり詰まっている光景は幼い頃から好きだったから、今でも落ち込んだときは図書館や書店に行って、ただ本を眺めるだけの時間を過ごす。

厚めの本を2冊鞄に入れたまま、久しぶりにお気に入りのカフェに出向くことにした。天気は曇りといえど暑く、その上歩いているうちに鞄の重さがだんだんこたえてきて、家に寄らなかったことを後悔した。汗だらだらの背中を気にしながら歩く。道すがら鹿に遭遇した。遭遇したというか、鹿はいつも結構な数いるので、特に驚きはしない。服を噛まれそうでいつもはそんなことしないのだが、近づいて顔を覗き込んでみた。鹿はとても美しい生き物だと思う。瞳の中に太い横一線が入っているのを初めて知った。人や犬や猫の瞳の中にあるのは丸い形なのに、君は違うんだねと心の中で話しかける。ふんふん鼻を鳴らして匂いを嗅いできたので慌てて避けた。なんも持ってないよ。

カフェは住宅地の入り口みたいなところにあってあんまり目立たない。冷たいアールグレイとアフォガードを頼んだ。バニラアイスにエスプレッソをかけて食べるスイーツ。私の敬愛する小林賢太郎氏が昔、好きなアイスは?の質問に「バニラにエスプレッソかけたやつ」と答えていたのが好きで、それにならって頼んだ。ここにも本がたくさんいるのでいつも適当に見繕って読む。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』などが入った短編集のなかに、幼い頃絵本で読んだ「やまなし」を見つけて、10数年ぶりに読んだ。やまなしって赤梨みたいに甘ったるいイメージだったけど、注釈によると酸味が強いのだそうだ。やまなしが水底に沈んでひとりでにおいしいお酒ができる、という説明がなんだか好きだ。

アフォガードを大切に食べてアールグレイを飲んだら、脳の真ん中がりんと冷えた感じがした。ごちそうさまでしたとお会計を済ませて、この冷たい麻薬が切れないうちに帰ろうと道を歩いた。途中またでくわした鹿は草を食んでいたけれど、一緒に小石も口に入れてしまって、しばらくぼりぼりとやっていた。鹿って石も噛み砕けるほどの顎なのだろうか、と見守っていると、私にしか見えないくらいこっそりと地面に石を吐き出していて、無理だったんだねとおかしくなった。家に着いたときには、私の心はなんだか大丈夫になっていた。

こうやって大きな迂回をして、私はようやくCreepy Nutsのオールナイトニッポン0をタイムフリーで聴いた。2人の生の声を聴いた。そこでやっと、今私が大丈夫になっている理由が、わかった。

本に囲まれた。道を歩いた。曇り空を見た。木々を見た。鹿の瞳を覗いた。うつくしい文章を読んだ。おいしいものを食べた。店員さんと少しのやりとりをした。自分で見つけたものをおもしろいと笑った。そうやって私は今日、たくさんの「生」に触れたのだ。雲は動くし、木も鹿も生きているし、本の中でクラムボンはかぷかぷ笑うし、蟹の家族はぷかぷか泡を吐いている。人の手がつくった食べ物には確かに心がある。いろんなものを「生」のまま、そこにあるまま、ありのまま、直接感じることってすごく大切なんだと、今日気がついた。最近の私はそれをしなさすぎたのだ。ひとりで家の中にばかりいた。生身の人間や動物や植物のあたたかさが今の私には必要だ。

Caseは最高のアルバムだった。私にとって決定的な、絶対に忘れられない、大事なアルバムになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?