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S.S.『風は知っている』

 晴れ渡った空の下、私は石畳の坂を上っている。前にこの道を歩いてから、二十数年の時が流れている。
 丘の上まで来て、大きく息をついた。ここは私の一番好きな場所だった。見晴らしが良く、空の広さも感じられる。遠くに見える街。流れていく雲。時間とともに色を変えていく空。見ていて飽きなかった。
 若い頃はよくここへ来たものだ。つらいことや上手くいかない時は、いつもここへ来ると慰められた。風に包まれていると不思議と心が落ち着いた。姿は見えないが、風が一緒にいてくれるような気がしたのだ。
 そんな場所が、あの日を境に変わった。私は突風にあおられて転倒し、以来訪れる度に突風が吹いた。そこに風の意思を感じずにはいられず、次第に足が遠のいた。
 今日も突風にあおられた。このところ足腰が衰え、元気なうちにもう一度訪れたいという思いは、風に届かなかったようだ。私とて、時に意識から消えることはあっても忘れることのできないあの日を、風もまた時を経ても忘れていないのだ。
 私は坂を下りていった。
 家に帰ると息子夫婦が子供を連れて来ていた。一人暮らしをしているせいか、彼らはよく訪ねてくれる。
「前もって言ってくれれば、何か用意したのに」
「いや、気を遣わせたくないから」と息子は笑った。
 息子には母親の記憶がない。物心がついた頃から親は私だけなのだから。母親は他に男を作り、姿を消した。以来両親の力を借りてではあるが、私なりに子育てをしてきたつもりだ。しかし今振り返ると決していい親ではなかった。疲れていて邪険に扱ったことも多々あるのだから。それでも真っ直ぐ育ってくれたのは、彼自身の努力が大きかったのだと思う。
 私は恵まれている。しかし私はそれに値する人間ではない。
 風が知っているように。
 久しぶりの団らんの後、息子は一人庭を眺めていた。子供の頃に思いを馳せ、懐かしく思っているのか、穏やかな顔をしていた。私にも同じ思い出があるはずだが、もう振り返りたくない。
「また来るよ」
「またね、おじいちゃん」
 ばいばいと手を振る孫に、笑顔で私も手を振った。
 嫁と息子を先に行かせて、息子が言った。
「庭に松の木があるじゃない。おれが生まれた時には、もうあったよね」
「あ、ああ」
「なんか、あの松を見ると懐かしくてさ。他にも古い木はあるのに、不思議だなって、いつも思うんだ」
 息子の車を見送ってから、私は松の木の下に立った。
 突風が起こり、私はよろめいた。
 知っているぞ、という風の言葉が聞こえた気がする。
 松の下には私の罪が埋まっている。誰にも言えない罪を埋めた時、突風が吹いたのだ。
 いつか、その時私はもうこの世にいないだろうが、この木が掘り返される日が来たら、その時も突風が吹くだろうか。
 私は知っている。風はそう言うだろうか。
                               〈了〉

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