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雲を破れ

光が作るもの

 光には指向性がある。明け方や夕方の太陽はある一方から地上を照らして地上の中に昼と夜にはない明るい場所と暗い場所の両方を作り出す。しかし太陽と地上の間に雲が挟まると光は雲の中で拡散してしまい、雲がない時と比べればぼやっとした、明るくはあるが影を作りにくい光になる。

 この数日はひたすらに曇天と雨天が続いていた。空にはべたっと張り付けたような雲が広がり明けても暮れてもその境が曖昧でただ明るいか暗いか、それしか感じられない時間が過ぎていた。光に違いが感じられない、昨日と今日がほぼ同一で明日もまた曇天の予報がかかりきっと今日と同じような明日が来るのだろうと思えるくらいには何かを模倣し続けたような毎日だった。

曇天のような

 自分の気分も曇天と雨天の往復と似ていた。起きている日と寝込んでいる日の境が曖昧になり体調の良し悪しという明暗も無く明確に悪いか動けないか、そのくらいの違いしかなく今が何月の何日で何曜日かもいつしかあまり自分の日々から抜け落ちていった。

 今日はどちらかといえば悪くて寝られない日だった。ベッドとトイレを往復して腹の具合が治るまで耐える時間が続いていた。片手のスマホも特段これといって見るものも見たいものもなく、ただ手に持っているだけの画面でしかなかった。

雲が破れた

 何回目かに腹痛を感じてトイレのドアを開けた時、窓から入り込む光が全く違っていた。トイレの室内にべたっと貼り付くような光ではなく、明確に窓から差し込む光として室内に明暗を作る意思を感じ取れる光だった。

 雲が破れた。直感がそう認識したとき、腹痛に構っている暇が一瞬にして消し飛んだ。準備していたバッテリーをカメラに入れ、掃除を済ませて防湿庫に保管していたレンズを取り出し撮影に必要な道具だけ持って家を飛び出した。今は破れている雲であってもまた太陽にかかる。それが10秒先か10分先かは問題ではない、今は確実に雲は破れていて太陽の光が地上へ届いている。天頂方向から徐々に光が減っていくような夕方ではなく、西から東へ明確な指向性を持っている光だった。

Canon FD 50mm 1:1.4

光をとらえろ

 撮影できた時間はきっと30分も無かっただろう。だがこの30分を得ることができた。桜の見ごろが短いように必要な位置に太陽があり雲が破れている時間も短かった。だが得られた。道具を用意しておく、撮影場所のアテをつけておく、準備すべきことはいくらでもあるがその準備の全てが30分の間に結実した。人によってはたった30分と思うだろう。だがこの30分、つまり雲が破れる瞬間が次にいつ起きてその時に桜が開花しているという約束はどこの誰ともできない。人間にできることは雲を掴むような瞬間が起こると信じて必要な準備を終わらせて、あとはその時が来たら何事よりも優先して準備を持ち出し動くことだけだ。次はない、準備を繰り返す日々はあっても雲が破れた日と時間に次はない。雲が破れた今日はまさに桜のようにただ今があり、今しかない。日々の準備を全て投じて曇天の雲を破れるのは、自分しかいない。

Canon FD 35mm 1:2

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