祖父の記憶 おぼえがき
私の祖父は1929年 北海道旭川市で生まれ、植物や虫が大好きな少年だった。小学校を卒業する年に、太平洋戦争が始まる。
当時、中学校に進むのは一般的ではなく高等教育機関への進学を望む一部の人のみが中学校に進学した。祖父もそのうちの1人であり、中学校での勉学に励んだ。しかし、戦争が進むにつれて深刻な人手不足となり、旭川では学生も農作業に駆り出されるようになった。最初は週に1度の手伝い程度だったが、次第に頻度が増え、農家の家に下宿し毎日単純な労働を繰り返す。たまに学校に集められて授業を受けたという。
そんな経緯を経て、祖父も立派な軍国少年となった。「お国のために死ぬ」のが最善であると考えるようになり、1945年長崎の海軍兵学校に入学する。
そして入学してから半年もたたないうちに終戦を迎えた。あと数日終戦が遅ければ、学生であった自分も戦地へ赴くことになったであろうと祖父は回想する。
終戦直後の混乱の中、祖父は当時訓練をしていた広島・呉から北海道を目指した。同郷の学友とともに汽車に乗り、被爆地を通過し、瓦礫の中を歩き、青森まで到達した。海軍兵学校の学生さん、という立場で多くの人に助けてもらったようだ。
青森から北海道へ帰る船が見つからず、とりあえずその日をしのぐために薪を集めていたところ後ろから「貴様!」と声をかけられる。それは同じく海軍兵学校に進学した祖父の兄 郁夫であった。兄弟であっても上級生には敬礼をして挨拶をしたという。兄との奇跡的な再会を果たしたのち、青森から北海道に出る漁船と交渉をする。漁船の漁師には「いつ攻撃されるかもわからない。命の保証はできない」と言われるのを了承して船に乗り込んだ。そして無事に北海道に帰ってくることができた。
祖父の両親は、国のために死ぬといって家から出ていった息子たちが2人も揃って帰ってきたのをとても喜んで、隠してあった白米を炊いてくれたという。
終戦後、祖父曰く「軍国少年の洗脳が解けた」。今までは軍人になり国のために死ぬことが人生の目的であったのに、戦争が終わって全てが変わり、これからどうやって生きていこうか悩んだ。
祖父の父は内科医だった。父は海軍兵学校から帰ってきた2人の兄弟にこう言った。
「郁夫、お前は医者になって私の病院を継いでたくさんの人を救ってくれ」
兄はそのつもりだと答えた。
「徹夫、お前は何がしたい」
祖父は少し迷ってから「植物が好きだ」と答えた。
「では徹夫、お前は植物の医者になれ」
「郁夫は人間の医者、徹夫は植物の医者だ」
祖父はそれは分かりやすくて良いなとスッと納得して、翌年 兄の郁夫は北大医学部に、祖父は北大農学部にそれぞれ進学した。
兄弟で旭川から離れ、丘珠の玉ねぎ農家の2階に下宿した。その一軒家のあたり一面は玉ねぎ畑だったらしい。
朝晩と下宿先で食事が出て、朝は兄弟2人で、帰りはそれぞれで自転車に乗って通学した。帰り道には銭湯に寄ってひと風呂浴びてから帰宅した。
それから、祖父は北海道農業試験場に就職して、研究に勤しんだ。毎月苦手な英語で論文を書き、祖父曰く「毎月submission とrejectを繰り返した」。仕事を始めたばかりのころには、苦手な英語でどうにか書き上げたレポートに対して、学会の人に「日本語で論文を書いてはいかがか」と言われ悔しい思いをしたという。祖父は「自分が研究して発見したものを、日本の人だけではなく海外の人にも読んでほしい」という思いでなんとか英語で書き続けたが、英語への苦手意識はいまだにあるらしい。
祖父は今年95歳になった。毎日規則正しく生活し、最寄りの図書館まで歩き、本を読み、酒を嗜むとても元気な95歳だ。
戦争の大変な時代を乗り越えて生きてきた、祖父という一人の人間の記憶を、個人的な記憶にはなるけれども、孫の私が少しずつ書き残していきたいと思う。
つづく
かもしれない
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