「かけがえのないもの」 私らしく生き続けるために
最近体力の衰えを感じている。
少し早歩きをしたり階段を登ったりすると息切れを起こす。旅行に行くと疲れて体調を崩すことが多くなった。普段より長く歩くだけで筋肉痛に襲われる。
理由は単純明快、運動不足だ。元から運動は好きではないし、テレワークで外に出る必要がないことも体力の低下に拍車をかけていると思う。ここまで書いておきながらとくに改善するつもりがないことが1番の問題かもしれない。
別にそれはいい。階段なんて登らなくてもエスカレーターやエレベーターを使えばいいし、旅行だって自分のペースで楽しめるようにプランニングすればいい。筋肉痛になったところで指先だけ動けば仕事は可能だ。
けれど、体力の低下というのは気力の低下でもあると気がついてしまった。
長い作品に向き合うことが大変になってきた。2クール以上のアニメとか、シリーズものの小説とか。
苦痛ではないし寧ろ趣味なのだけれど、どうにも体と心がついてこない。「よし楽しむぞ!」と気合を入れないといけなくなった感じがする。
何かをインプットするということは、自分の中に新しい世界を受け入れるということだ。現実ではない世界観を理解し、そこに生きる人々の思考や感情を受け止める。ときには感情移入した登場人物と一緒に喜怒哀楽を感じたりもする。それってすごく気力を使うことなのだと知った。
気力がなくなる弊害はまだある。
たとえば人に興味を持てなくなること。もちろん大切な人には必要以上に興味津々なのだが、いわゆる知人程度の人間に対する興味が極端に薄くなってきた気がする。その人の好みはもちろん、名前さえ思い出せないことが増えた。元から決して社交的というわけではないのだけれど、それにしても名前くらいは覚えるべきではないかと思う。
体力の低下と反比例するように、心の解像度は年々細かくなって行く。いろいろなものを感じたくて、感じられる技術も身に付いてきたのにエネルギーだけが足りない。
好奇心の赴くままにいろいろなものに触れたいのに、後の消耗を考えると躊躇ってしまう。今の私にはある程度の時間的・金銭的余裕もあって、応援してくれる人もたくさんいるのに、これでは宝の持ち腐れだ。
自分の置かれた環境を最大限活用するには体力の向上が必須なのかもしれない。誰かと関係を築くのも、友達と遊ぶのも、こうしてエッセイを書くのもエネルギーが必要なのだから。
かけがえのないものとは、私を維持するためになくてはならないもののことだ。だとすると私にとってかけがえのないものは体力なのだろうと思う。
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