捨てられないしんどさもある

 社会に蔓延る理不尽に対して声を挙げている人はすごい。
差別的な価値観や、同調圧力。特定の属性を持つ人々を排除するような思考。大多数が常識だからと疑いもしない風習。そういうものに疑問を持ち、なんとかしようと声を挙げている人たちのことを、私はとても尊敬している。
私自身も、疑問に感じたことや理不尽だと思うことについては、SNSで発信することにしている。必ずしも理解を得られるわけではないし、寧ろ敵を増やしているような気もするけれど、発信しない理由にはならないと思う。

 そういう発信をしていると、社会に対して何かを主張することの難しさを痛いほど感じた。
たとえば私は男女の平等や障害者に対する差別についてのトピックを発信することが多いのだが、やはりそれらを快く思わない人は一定数いる。いろいろな人がいるので、それは仕方がないことだし、覚悟もしているのでいまさらしんどいとは思わない。
本当にしんどいのは、やんわりと口を塞がれそうになることだ。
私は差別なんて経験したことがない。そんなことで騒ぐなんておかしい。昔はそれが当たり前だった。軽く受け流すのが大人の嗜み。
こういう言葉が呪いとなって、怒りを覚えている自分こそがおかしいのではと悩み、心を折られてしまう人がたくさんいる。私はこれが一番しんどい。

 加えて、いわゆる当事者の理解を得られないしんどさもある。
たとえばKuTooという取り組みがある。女性に対してパンプスやハイヒールなどの靴を矯正することを禁止するよう求めた運動だ。SNSの発信を通じて広がったが、女性からの反対も多かったと聞く。
そもそも女性だからといって皆が賛同してくれるわけではないし、別に困っていない人もいるのだろう。「私はハイヒールを履くのが好きなのに」という意見をなん度も目にした。
自分は困っていないから。女性全体がハイヒールを履きたくないと思われたら嫌だから。そういう理由で反対している人は多いのかもしれない。
当事者と似た属性を持っているだけで、同じように考えるわけではない。別に誰かのために意見を発信しているわけでもない。勝手に期待してガッカリするなんて自分勝手以外の何者でもない。私は当事者の意見を無視して暴走するヤバいやつなのではないかと、毎日のように自問自答する日々だ。

 また社会に対して原因を求めたり、怒りを表明することが歓迎されない雰囲気も、声を挙げることのしんどさの一つだと思う。
置かれた場所で咲きなさい。他人を変えるのではなく自分を変えなさい。
言いたいことは分かるけれど、それじゃあ前には進まない。いつだって時代を変化させたのは現状を良しとしなかった人たちなのだから。
植物と違い、人には立派な脚が付いている。本当はどこへだって歩いて行けるはずなのに、人間を取り巻くしがらみは容易くそれを忘れさせてしまう。

 しんどいのならやめてしまえばいい。黙って現状に身を任せればいい。おそらく大抵の人はそう思っているのではないだろうか。
でも、声を挙げないといけない理由がある。未来を生きる子供のためかもしれないし、過去の誰かを救うためかもしれないし、自分の生活を変えるためかもしれない。黙ってやり過ごすことは、自分の意見を否定されたり理不尽に罵倒されるより辛いことだから、誰に頼まれるわけでもなく思いを伝える。自己満足でも、面倒なやつだと思われても、大事だと思うなら伝え続けなければいけないのだ。

 現状に満足している人。必死で環境に適応してきた人。そういう人々の中には、社会に対して声を挙げることを甘えだと捉えたり、許せないと思う人もいるだろう。
彼らに分かってほしいのは、誰かの権利を認めることは、あなたの権利を損ねるわけではないこと。誰かの選択肢を広げることは、あなたの努力や我慢を否定するものではないこと。
それでも許せないと思うなら仕方がない。あなたはあなたの世界で、私は私の世界で生きよう。時には戦いながら、自分の大事なもののために生きていこう。
面倒な性格だなーと思う。でもこういう性格だから見逃さずに済んだこともあるはずで。しんどくても、私はこれからもこうやって生きていこうと思う。

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