おいしい「羊羹」に出会う時
かつて、馬祖道一(ばそどういつ)禅師という非常に有名な中国の禅僧がおりました。
その馬祖道一禅師の法嗣に帰宗智常(きすちじょう)禅師という方がいたんですね。
その帰宗智常禅師に李渤刺史(りぼつしし)という、当時師のもとで修行をしていたものがある質問をします。
三乗十二分教は問わず、如何なるか是れ祖師西来意。
この「三乗十二分教(さんじょうじゅうにぶんきょう)」というのは、仏教の経典を色々な種類に分類したもので、お釈迦様が説いたお説教を「詩」や「逸話」などに十二通りに分類したものをさします。
なのでここで言う「三乗十二分教」というのは「全ての経典」、「お釈迦様の残された仏典」という意味で、この李渤刺史は「そういう学術的なものについて私は質問致しません。私が知りたいのは如何なるか是、祖師西来意のことです。」と質問するんですね。
またこの「祖師西来意」というのは、かつて菩提達磨大和尚が真実の仏法を伝えるために、インドから中国に遥々やってきて、「面壁九年の坐禅」をされたその思いや意図の事を指しますが、その達磨様の実際の行動や言葉、意図を聞いている訳でもありません。
つまりはこの「祖師西来意」とは、「真実の仏法」を伝えた達磨様の行動になぞられて「仏法の大意とは何か?」ということを指しているわけです。
この「祖師西来意」という表現は様々な祖師方がさまざまな場所で引用され、例えば「仏法の大意」や、「自己の正体」、「本来の姿」、「生命の実物」などの仏法ギリギリの教えを指す言葉としても用いられます。
今回の李渤刺史もこの「祖師西来意」という言葉を用いて、「究極の仏法ギリギリの教え」とは何かを聞こうとしたんですね。
三乗十二分教は問わず、如何なるか是れ祖師西来意。
するとその質問を受けた帰宗智常禅師は、何を思ったか「ググっ」と自分の「拳」を握ってその修行僧の目の前に突き出したんですね。
今で言うガッツポーズを決めた時のように、目の前に「拳」をグッと出した。
そして、
分かったかね?(会すや?)
と李渤刺史に聞くのです。
しかし李渤刺史からしたら、目の前に握りこぶしを出されたところで何の意味があるのか分かるはずがありません。
今までそのような経験も無いでしょうからね。
「如何なるか是れ祖師西来意」と質問したのに握り「拳」をグッと目の前に出される。
そんな経験などないし、そんな答えなど求めてもいない。
一体どういう意味なのか、全く何が何だか分からなかったはずです。
「分かったかね?(会すや?)」と質問された李渤刺史の方は「素直にそのまま分かりません。(不会。)」という風にお答えになります。
すると帰宗智常禅師が次のように答えます。
飽学措大、拳頭もまた知らず。
「飽学措大」というのは「飽きる程学んだが、貧しい人」という意味です。非常に馬鹿にした言い方ですね。
李渤刺史は非常に頭が良く優秀な人物だったという風に言われております。
科挙(かきょ)試験に合格し、知事も務め、その後仏弟子になったと言われる程の人物だったとも言われております。
この科挙試験というのは当時の中国における官吏登用制度です。
これは毎年やるものではなく、何年か置きに実施され、中国全土から都の長安にやってきてその試験を受ける。非常に難しいとされる試験だったようです。
いかにこの李渤刺史が利口で優秀な人間だったかがわかりますね。
そして官吏職というものに人生を投じますが、その後官吏職を辞し、仏道を志す。
彼はこれから立派な僧侶になろうという決意のもと、師匠に質問したはずです。
それなのに意味不明にも「拳骨」を出されてしまう。
普通であれば馬鹿にされているのかと思いますよね?特に頭が良いとされている人間であれば尚更の事でしょう。
プライドを捨て「全く分かりません。(不会。)」と答えます。
すると続け様に、
飽学措大、拳頭もまた知らず。
と突き放されてしまう。
「非常に難しいとされる科挙試験にも合格し、飽きる程勉強してきたあなたなのに、この握りこぶしも知らないのか?」と。
この李渤刺史も「今、目の前に出されているのは握り拳だ。」という事くらいは理解できる。
しかしこの「握り拳」と「祖師西来の意」つまり「仏法ギリギリの教え」というものがこの李渤刺史にはどうしても結びつけることができない。納得出来ない。
納得できないから「分かったかね?(会すや?)」と質問されても素直に「分かりません。(会せず。)」という風にお答えになったわけです。
この両者の問答は全く話がかみ合っていません。何故噛み合わないのでしょうか?
それは質問した方は、言葉を駆使し「概念」で質問をし、答えた方は言葉ではなく「実物」を目の前に提示しているからです。そもそものやり取りの方法が破綻しているんですね。
仏法で問われるのは「実物」の話。
例えば、今まで「羊羹」を一度も食べたことが無い人に「羊羹」というものがどういうものなのか伝えようとする際、
「羊羹というのはね、小豆と寒天と、砂糖と蜜飴で出来ているんだよ。」
と言ったところで、本物の「羊羹」のあのイメージは中々想像させにくいでしょう。
或いはその「羊羹」についてもう少し詳しく説明しようと思って、
「羊羹はね小豆を一晩水に付けてからコトコトコトコト、火にかけて、小豆のあんこを作り、それに水で溶かした寒天を入れてその後また火にかけて、かき混ぜながら徐々に水分を蒸発させて硬くして、頃合いを見計らって砂糖を入れて、最後に蜜飴で味を調える。そして冷ましたら羊羹が出来るんだよ。」
と、いくらそのように詳しく説明をしたとしてもやはりあの甘い「羊羹」のイメージは湧いてこない。
まぁこれが学校の試験であって、「羊羹について」という問題に対する答えであれば100点満点が取れるかもしれませんけども、「仏法」においてはこれは100点満点とは言えません。
「仏法」の場合は常に「実物」の話であります。
どんなに詳しく説明したところで「概念」の話は「概念」でしかない。
「仏法」で問われるのは、「生命の実物」であります。
そして何が実物なのかというと、この時の師匠のように「拳」をニョキっと目の前に突き出すこと。これのみです。これ以外に仏法の答えはありません。
そして「会すや?(分かったかね?)」と聞かれたところで、普通の人間には何が何だか分かりません。
李渤刺史も同じです。
それまでその李渤刺史はずっと自分の概念の中で生きてきた。
またその経験の中で「拳骨は何の意味か?」だったり、「今から私を殴ろうとするのかな?」とか。
様々な事を思う訳ですね。
それでも、この李渤刺史は目の前に突き出されたその「拳骨」の意味が本当に分かりません。
それがし実に会せず。
(私は本当に分かりません。)
という風にお答えになるんですね。
わかりません(不会)です。
しかし不会、この「分からない」というのがある意味仏法の答えでもあるのです。
何故ならば仏法で問われる「実物の話」というのはどうやったって「頭」で理解する事ではないからです。
仏法が問う所の「実物」というのは、今ここに生きている「実物」で提示するしかない訳で、これを頭で理解しようとしてもそれは不可能だからです。
つまり、
三乗十二分教は問わず、如何なるか是れ祖師西来意。
と「仏法ギリギリの教え」とは何かを質問された帰宗智常禅師は、その質問に答える為に「拳骨」を目の前に差し出すしか方法はなかったのです。
結論:他にも絶対方法はあったと思う・・
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