人のために生きることは、むずかしい
書くか悩んだ。
25歳だった私の人生目標は、自分が【死んだときに皆に泣いてもらえる】ことだった。
それは若いなりに少し複雑な人生を経験して、努力して、ようやく25歳で定職に得て、これから穏やかな人生を過ごせると思った1人の若者の答えだった。
それまでは自分の生活のために懸命に生きてきた。人並みの生活をしたいと願って、ようやく今月の電気代が払えるか悩まなくていい生活ができるようになって、これからどうやって生きていこう。
そう悩んで導き出した答えが、人に惜しんでもらえる人生を歩むことだった。
(当時は、その後セックスレスや結婚に踏みきらない恋人にヤキモキしたり、出産できない焦りを覚えるとは想像もしていなかった)
1 みんなのためには生きられない 27歳
そんな博愛主義のようで、自己中心的な人生目標を指針に生きはじめていた私は、27歳でその目標に挫折した。
友人が自殺したのだった。
しかも、彼(友人)が亡くなる直前に連絡していた相手は私だった。
「話があるから、会いにいってもいい?」と深夜に連絡があったのだった。当時の私は、恋人と同棲生活をはじめており、何の前ぶれもなく異性の友人のために深夜に家を出たり、家に泊めたりすることは考えられなかった。友人が亡くなるとも思わず、私は「今日は無理だから、週末にB君も誘って飲みに行こう」と返したのだった。
あの時に会っていれば、彼はどうしていただろうか、と今でも思う。
阪急石橋駅近くの歩道橋に深夜飛び込んだ彼。
人の迷惑を気にしすぎるタイプな彼が道路に飛び込むとは、よほど追い詰められていたのだろうと思う。共通の友人と彼の家に行くと、彼の両親から「宗教上の理由から自殺は許されないから墓はない」と言われて、2人で歩道橋に行き、彼を偲んだ。
他の共通の友人たちはLINEで「うそ」「信じられない」というだけで、一緒に歩道橋まで彼を偲びに行った共通の友人は1人だけだった。そのなかには、彼のことが好きで告白した女性や、何度も朝まで飲み明かした人たちもいた。そんな彼らがLINEでそう反応するだけだったことに、強い衝撃を受けた。
あれほど仲良くしていても、彼を悼む気持ちはそれ程度なのか、と。
2 大事な人のためにも生きられない 34歳
友人の自殺は、今も私の心に大きな傷を残している。ときどきジクジクと痛む。
自殺しようと思っている人に言いたいのは、その行為はあなたを愛している人を一生傷つけてしまうということだ。私自身が死にたいと思ったことも何度もあったけど、死んじゃだめだ、と思えたのは、大切な人にこんな気持ちを味合わせたくないという気持ちからだった。
27歳の反省から、私は一部の大事な人をとことん大事にして生きようと決めた。
あの27歳の夜、彼を自宅に迎え入れていたら、違う世界があったかもしれない。そう思って、大事な人たちの誰かが深夜に呼び出してくるようなことがあれば、私は絶対に行くぞ、と思った。
実際、それを指針に生きてきた。
東京で泣いていたら、関西から新幹線に乗って話を聞きに行ったし、深夜2時に相談したいことがあると言われたら出かけて話を聞きに行った。自慢とかではなく、もう2度とあんな思いをしたくない一心だった。
もちろん、そういう大事な相手は一部に限定していたから、そういう出来事も稀で、疲弊してしまうほどのこともなく、大事と思っている人に求められる自分であることも嬉しかったし、大事な人の役に立てていることも嬉しかった。
私は自分の生き方に一定の満足を覚えていた。
そして、34歳の冬に また友人が死んだ。
忘れもしない1年前。
その時期の私は、母と2人で祖母の看取り介護をしていた。末期癌の祖母は、酷いせん妄になっていて、夜にオムツを脱いだり奇声をあげたりして、ひと時も目を離せない状態だった。
私は介護休暇をとって仕事を休み、祖母の介護にかかりきりになった。自分たちが風呂に入れるタイミングは、ヘルパーさんが来てくれた時だけなほど祖母から離れられない状態だった。
祖母が眠る介護ベッドの隣に、母と2人で布団を並べて、つきっきりで介護をし、祖母を看取った。祖母が息を引き取るときも、ずっと2人で側にいて、手を握っていた。動かなくなった祖母の手を握って涙を流していたとき、友人は死んだ。
その日は、私の34歳の誕生日翌日だった。
彼らの命日を、私は生涯忘れられない。
祖母の葬儀を終えてから、私は友人の死を知ったのだった。
友人はまだ36歳だった。
1年間で、1番酒を酌み交わした人だった。
祖母の介護中も「落ち着いたら、飲みに行こうな!」と励ましてくれて、頻繁にLINEをしていた人だった。そのLINEだって亡くなる2週間前のやりとりだった。
なんで。
祖母の看取り介護の期間は1ヶ月だった。その1ヶ月。人生で、これほど動けない時期もないだろう時期に、大事な人をまた失った。他の時期だったら、その友人を救えただろうなんて、おこがましいことは思わない。ただ、ただ、その時期ではなかったら、話を聞けたかもしれない、少し、僅かでも、役に立てたかもしれない、と悔しかった。今も悔しい。
誕生日の翌日
私は、大事な人を2人失った。何もしなくても、私という存在を受け入れてくれていた人たちが、もうそこにいない。さびしい、悔しい、腹立たしい、かなしい….やっぱり、さびしい。帰ってきてほしい
3 人のために生きることは難しい
私は、大切と思う人のことも、大切にできないのか、と悔しかった。どう考えても動けない時期だっただけに、大事と心に決めた人のために生きることにも限界があることを痛切に感じた。当たり前の話かもしれないけれど、「大事な人」にも順番ができてしまうことも実感したし、それが冷酷で心底悲しかった。
落ち込む私を励まそうと、いろんな人が声をかけてくれた。
でも、私には順番はなかった。だから
「おばあちゃんは、まだ予期できる亡くなり方だったから」とか
「友人のことは、ご家族の方が辛いんだよ」とか
私から見た順番や、祖母や友人側からの順番を勝手に突きつけられることが辛かった。ご家族が辛いのは、そうだろう。もう想像できないぐらい辛いだろう。でも、じゃあ、私の辛さはたいしたことがないから、となぐさめられるものだろうか。こんなに辛くて悲しいのに。
予期できた死だったとか、家族の方が辛いのだ、とか言われて私は1人で泣いた。他者からみたら、たいしたことのない悲しみに溺れて。
誰かのために生きることは、どうしても限界がある。
私は彼らを心底愛していた。
同時に、大事な人を生きる理由にすると、大事な人たちがいなくなった後、自分はこんなにも脆くなるのかと痛感した。まだ大事な人がいるから、まだ生きなくちゃいけないと思って生きている。
人のために生きることは難しい。
これからどう生きていくか、まだ答えが出ていない。
だから、書くか悩んだ。
大事なことは、今いる大事な人を大切にすることだと思っている。
あの時こうすればよかった、という想いは尽きない。
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