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なんでもない記事を書く

母から「ちょっとTwitter(X)の使い方を教えて」と聞かれて、ドキッとした。

操作方法はともかく、何を教えておくべきか。たとえば『炎上の種類、絡んでくる人がいる、安易にリポストや♡を押さない、現在地や情報は分からないようにする』とか。とにかく治安が悪いから、あれもこれもと教えた。50代の母の情報リテラシー力は弱く、facebookの投資広告に騙されかけたし、Instagramの定期発送の化粧品を買って解約に困っていたりする。そんな母がTwitter(X)? 絶対危ないやん

一方で、インターネットも狭くなったなと寂しく感じた。かつての同志が立てた素朴なCGIで動くBBS(掲示板)やチャットは化石となって久しいが、あそこは2chにでも晒されない限り、世間の炎上を気にせずに見知らぬ愛好家同士で盛り上がれた。かつてのブログもそうだった。

霧ヶ峰の秋 ここは風の音しか聞こえなかった。

いつから空が狭くなったのだろう。SNSはすごい人で溢れ、有益ではない情報が発信しづらいような居心地悪さを感じたのは、いつからだっただろう。
 私はエッセイが好きだった。人々がはにかんでカメラを見ていたり、美味しそうなご飯を食べている写真や、日常の空気を書いたようなブログを読むのが好きだった。個人情報や特定、犯罪の話が増えてから、日常の人々が映った写真が消えていった。

Twitter(X)も「今日のご飯がおいしかった」という素朴さが好きだったのに、気がつけば、美容や政治の情報を集めるアカウントに化していた(それを選択していたのは、もちろん自分だけど)。フォローの外では毎日、誰かが誰かを批判し、意見表明しており、それがタイムラインに流れてくる。疲れた。

家で作るパン。いつも形が安定しない

色々悩んだ末に、私はnoteで「今日のご飯がおいしかった」ぐらいの軽い素朴な記事を書こうと思った。日記、エッセイ、まぁそんなもの

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