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幻灯劇場「鬱憤」と、ずっと家にいたあの頃の私。

 コロナパンデミックでずっと家にいた、まだ数年しか経っていないあの頃を思い出そうとすると、途端に靄がかかったように記憶が曖昧になるのは何故だろう。

 当時大学2回生だった私は、1回生で築いたなけなしの人間関係だけを頼りに、毎日家でオンライン授業を受けていた。電車通学も部活も突如なくなったため、誰かに制限されようとされまいと、必然的に家にいる時間が長くなった。映画だって普段より何本も多く観たはずだし、毎日体温計に表示される数字と睨めっこして、平熱が人より高く、規定値を超える日が度々あることを、顔も知らない誰かになんとか証明しようとしていたはずだ。でも、思い出はあやふやである。

 元々多くの人と接することは得意ではなかったから、オンライン授業で楽だな、とか、家族以外の人と会わなくて良いな、とか、それなりに家にいることを楽しんでいた気もする。それと同時に、今、あの頃をはっきりと思い出せないのは、一種の心の自己防衛であって、忘れたくなるほどの過去だった気もする。

 そんなことを改めて考えたのは、先日観劇した幻灯劇場の音楽劇「鬱憤」がきっかけだった。



幻灯劇場 音楽劇「鬱憤」(※本編の内容に触れています)

 幻灯劇場 音楽劇「鬱憤」は、ざっくり、簡単に言うと、"ヒノワウイルス"が蔓延した世界と、パンデミック後の世界において、小さく優しい嘘を吐きながら、目の前にいる誰かを大切に思う人々の群像劇である。私は初演版は脚本上でしか知らないが、今回の再演版は登場人物が少し減り、焦点が絞られたことで、よりそれぞれの「生活」と「関わり」に奥行きが出て好きだった。

糸電話

 ある日を境に、同じ家に住んでいるのに糸電話で会話するようになった恋人たち。

 起死回生のイベントで感染者が出て、存続が危うくなる本屋とその従業員。

 ずっと家にいる少女と、少女に鉢合わせてしまう空き巣の二人組。

 パンデミックで親の会社が潰れそうな大学生と、パンデミックを逆手にとって詐欺まがいの商売で儲けるその幼馴染。

二人組の空き巣と少女。ホーム・アローン。
ランボルを乗り回すみなさん

 4つの物語の中で、パンデミックでわかりやすく傷つく人もいれば、そうでない人もいるのがリアルだ。そして、描かれる嘘の中には必ずと言っていいほど優しさと臆病が混在し、それが人間くささと、一方では幻想・理想を生み出していたと思う。

 前回公演の「DADA」も好きだったけど、TV番組「THE GREATEST SHOW-NEN」版→脚本を買って読む→今回の再演、と追いかけた「鬱憤」は、より深いところまで考えられた気がするので、一際思い出の作品だ。


「鬱憤」で知った、「あの頃の私」と「今の私」との距離

 「鬱憤」を観終わって、そしてアフタートークを聞いて湧き上がったのは、「私って今、この物語を”一つの物語”として見ていた?」という驚きだった。

 もし、由梨ちゃんが「特に酷かった」という2年目の冬に観劇したのなら、きっと自分の話として、コロナ禍を生きる自分自身をこの中に見ていたはずだ。でも、この時の私は、「ヒノワウイルスのパンデミックの話」として、一つのフィクションとして、この物語に「感情移入」していた。

 このことに気づいた時、自分がどこかあの頃の辛さに鈍感になってしまったようで、あの頃辛かったこと、辛い思いをした人をただの「過去」にしてしまったようで、なんだか申し訳なくなってしまった。社会科の教科書にたった1行、「20XX年はパンデミックで社会機能が止まった」と、自分で書いてしまったような気がした。

 それと同時に、私はある種の自己防衛で、あの頃を思い出から記憶へ、記憶から過去へ昇華したのだとも感じた。

 その手段が、私にとって「鬱憤」という「物語」を飲み込むことだった。

「”ポジティブ”で良かった」



フィクションと私たち

 私自身は、物語=フィクションがなくては生きていけない、と思っている節がある。フィクションがあることで現実を見つめることができ、現実があることでフィクションに感情移入ができる。フィクションは私にとって現実逃避の手段であり、同時に現実を生きる確かな手段なのだ。

 ここで、なぜ私はフィクションを欲するのか、その答えにヒントを与えてくれる、アーザル・ナフィーシー著『テヘランでロリータを読む』から一節を引用したい。

あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。(中略)どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。(中略)あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。

アーザル・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵里 訳, 河出文庫)p.83


 漠然とだが、「鬱憤」が私の代わりにあの頃の私を覚えていてくれるのではないか、そんな思いが湧き上がってきた。だからこそ、私は安心して記憶を過去へと手渡し、ふと気づいたときに「あの頃の私」との距離を探り直すことで、もう一度過去を思い出として取り出すことができるのではないか。

 「鬱憤」という、極めてノンフィクションなフィクションにハマるのは、私を現実へ向き合わせてくれるための、束の間の逃避行をかたどった、あの頃の私なりの抵抗なのかもしれない。


最後に

 「楽しみにしていた幻灯劇場の「鬱憤」の感想をnoteに投稿しよう!」などと書き始めたら、気づいたら結構な時間をかけて長めの文章を書いてしまっていた。普段は愛用しているノートに映画やらドラマやら演劇やらなんやらの感想を長々と、気の向くままに書いている私だが、人に見せられる文章となるとやっぱり時間がかかるらしい…。しかもこれ、好きなシーンやセリフを個別に書いてなくての長さな訳で。恐ろしや。

 そしてもし、この拙い文章を読んでくださっている幻灯劇場の関係者の方がいらしたら、ぜひもう一度再演を、そして劇中歌を収めたCDの再販を考えていただきたく…。CDは売り切れで買えなかったのが悔やまれます。再演も、再販も、何卒。それまで、鬱憤Tシャツを大事に着倒しますので笑。あと、公式写真をたくさん使わせてもらいました。ありがとうございます。

 とにかく私は、劇中歌の「糸電話」が!大好きだ!!!

 今回生で聴いて泣きそうになりました。周りに人がいたのでなんとかこらえましたが。


 「糸電話」、よく家で一人で口ずさんでます。

 最後まで読んでくださりありがとうございました。

P.S. そういえば峠が売ってたちょっと胡散臭い商品の名前は、グレショーの企画会議エチュード(で合ってるっけ?)で出てたやつだったような…ノイズカウンセリング!

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