アゴタ・クリストフの『文盲』を読んで
アゴタ・クリストフの『悪童日記』三部作を読んだことがありますか?
読んだ人は間違いなく衝撃を受けたはず。
本作で1986年にフランス文壇デビューを果たし、40ヵ国以上に翻訳された世界的に注目され、日本でも堀茂樹さんが翻訳をされて1991年に出版され反響を呼んだ。
初めて読んだ時のショックを今でも覚えている。こんな残酷な子供たちを書くなんて。著者は男性の名前のようだが女性で、しかもハンガリー人がフランス語で書いているではないか!
日本語で読んだ後にフランス語で読んでみると、文章に冷酷さが増すことに気づく。美しい街の間をゆったりと流れるセーヌ側のようなフランス語が、大雨の性でダムから大量に流れる水のように容赦なく迫力がある。
さて、今回はアゴタ・クリストフの自伝『文盲』を読んで、彼女の生い立ちや外国語で文学書を書くことについて焦点をあててレビューするとする。
彼女の自伝を読もうと思ったきっかけは、『BRUTUS』特集・村上春樹(上、読む編)「村上春樹さんが手放すことのできない51冊の本について」の中に本書が含まれていて、興味を持ったから。
村上春樹さんはこう記している。
「アゴタ・クリストフは1956年のハンガリーの騒乱の際に故国を逃れ、スイスに移り住んだ。21歳のときだ。結婚しており、生後4ヶ月の娘を連れていた。そして難民としての苦難の生活が始まる。でも彼女はこう書いている。「確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ」
そして彼女はフランス語で「もの」を書き始める。外国語で小説を書くというひとつの重い「枷」を背負っていたわけだが、その枷が結果的に、逆に彼女の文章に特別な力強さを与えることになる。思い通りにならない言語を用いて、自分の思いを正直に正確に表現すること。そこに独自の文章スタイルが生まれる。初めて『悪童日記』を読んだとき(かなり前のことだが)、僕はとても驚いた。そしてなぜか深い共感のようなものを覚えた。
この『文盲』は彼女の自伝的メモワール。日々何気なく使っている言語の大事さをあらためて教えられる。言葉を大事にしなくては」。
この文章を読んだら、言語に関心のある人なら手に取りたくなるだろう。
私も即、書店に注文した。
彼女が歩んだ人生を11章に分けて綴られ、55ページと少ないこの自伝を読み始めるとすぐに、『悪童日記』の文体だー!と懐かしくなった。
「わたしは読む。病気のようなものだ。手当たりしだい、目にとまるものは何でも読む。新聞、教科書、ポスター、道端で見つけた紙切れ、料理のレシピ、子供向けの本。印刷されているものは何でも読む。
わたしは四歳。数日前から戦争が始まっていた。
当時わたしたちは、小さな村に住んでいた。駅も、電気も、水道も、電話もない村だった」。
作家の父親は小さな村の唯一の小学校で、全学年を教えていた教師であった。母親は、常に家事に追われ、まとわりつく末っ子を溺愛していた。
作家は兄と大の仲良しで、よく一緒に悪ふざけをしては母親に叱られていた。作り話をして弟をからかってはお仕置きを喰らったりもした。
孤児院のような寄宿学校に入ると、ろくに食べるものも寒さを凌ぐ物もない厳しい生活の中で、親に頼ることも出来ず、20分の小演劇や即興寸劇を生徒たちの前で、そのうちに先生や生徒たちの親の前で披露しながらお小遣いを稼いだ。
幼い頃から書くことが好きで得意な作家は、早くから作家になることを夢みていた。
私が好きな章の『母国語と敵の言語』は、私の気持ちを代弁してくれているようで共感できた。21歳でスイスに亡命した作家は、30年以上もフランス語を書いているが、いまだに辞書なしでは書けず、間違いなしの完璧なフランス語を話せるわけでもない。したがって、フランス語は彼女にとって敵なのである。もっと恐ろしいのが、フランス語が母国語を殺そうとしていることだと述べている。
幼い時にドイツ語とロシア語を押し付けられた、故国を去らざるを得なかった作家が、オーストリアを経て、スイスへとたどり着いた。文化も言語も知らない国で、彼女は「文盲」と化したのであった。
21歳で「文盲」となり、26歳で学校に通い始めて読み書きを学び始めた。
何よりも、書くためにフランス語を習得しなければならなかった作家の最後の言葉はとてつもなく重みがある。
「この言語を、私は自分で選んだのではない。たまたま、運命により、成り行きにより、この言語がわたしに課せられたのだ。フランス語で書くことを、わたしは引き受けざるを得ない。これは挑戦だと思う。そう、ひとりの文盲者の挑戦なのだ。」
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