今さらながらの自己紹介~機械設計者の原体験~

はじめに

先に転職系「転職した方がいいのか?しない方がいいのか?迷っている技術者のための参考note」の話をアップしていますのでいまさら観がありますが自己紹介です。
先の記事では転職話ですので当然のように就職後の話がメインですが、本記事では小学時代から就職までのお話しがメインとなっています。特にいい話、ためになる話ははありません。およそ5,000字の文章となっています。

当たり前の話ですが、私の話を書いていますので私のことに興味がない方、そもそも私って誰やねん?という方はスルーしてください。同年代の方(S54生)には共感してもらえる部分もあるのではないかと思います。
ちょっとした隙間時間の暇つぶしにどうぞ。

◆小学校卒業まで~これって原体験?~

小学生のころに月刊コロコロと月刊ボンボンという雑誌を中心にそれぞれ「ミニ四駆」、「ガンプラ」が流行っていました。

当時ボンボン派はオタクだと言われていて、どちらかというとコロコロ派が多数派でした。私の周りもコロコロ派が多かったのですが私はボンボン派でした。友人たちとミニ四駆を改造してスピードを競って遊び、一人の時間が長いとき、例えばお正月で祖父母のところに行ったときなどは、ガンプラを作って時間を過ごしていました。

ちなみに分かりやすいのでガンプラと書きましたが正確に言うと、当時はどちらかというとSDガンダムやBB戦士が主でした。(興味ない人には何言ってるかわからないと思います。すみません。)

なにはともあれ、小学生の頃にミニ四駆やガンプラを通じて「ものづくりの面白さ」というものを体験したように思います。

ちなみにこれは現在の私が機械系の技術者であるため、いわゆる原体験かのように語っていますが、例えばガンダムというコンテンツをきっかけに機械(ロボット)だけではなく、宇宙にも興味を持ちましたし、聖闘士星矢というマンガの影響で宇宙・星座、ひいては神話にも興味を持ちました。わくわく動物ランドというテレビ番組の影響で動物にも興味を持ちましたし、流れ星・銀というアニメは私に犬という動物に対して興味を持たせるのに十分なコンテンツでした。父が塾で英語教師をしているので英語に触れる機会も多かったです。
可能性だけを挙げるなら、宇宙を研究する人になっていたかもしれないし、動物園で仕事をする人になっていたかもしれないし、英語の先生になっていたかもしれない。
とどのつまりどのルートを進んだとしても原体験と呼べるような何かはあります。

また、ここに書いた興味対象のインプットのほとんどがテレビ・アニメ・マンガ(あるいは書いていませんがゲームも)ですが、これは私の実家は両親共働きで、かつ中途半端な田舎暮らし。
家族でどこかに旅行に出かけたりすることはほぼなく、友人たちと裏山に秘密基地を作って遊ぶようなこともやりましたが1週間もすれば飽きてしまい、結局はテレビ・アニメ・マンガ・ゲームというコンテンツに触れる機会が多かったからです。

余談ですが、実家の裏山(自転車で5分くらい。上記の秘密基地を作った山)からあるとき呪いの藁人形が発見されて大騒ぎになったことがありました。閑話休題。

ちなみに今でもプラモデル作りは好きですし、東洋問わず神話に広く浅く触れるのも好きですし、動物系の番組(癒し系ではなくダーウィンが来た!のような生態に迫る系)は録画して子どもと一緒に見ています。

ここで言いたかったのは、要するに原体験のようなものはあると言えばあるけれど、それをもとに将来は機械設計をやりたい!と思って人生ずっとやってきたかというとそんなことは全くないです。

機械設計は面白い!そういえば子どものころミニ四駆とかガンプラ好きだったな!そういえばあれがきっかけだったかも?と言えるようになったのはつい最近、40を超えてからです。

◆中学から高校卒業まで~機械科へ進む~

中学時代は学校・部活・塾が中心で帰宅後はゲームか宿題か、あるいはマンガや小説を読むか。
小説は歴史ものや推理ものが好きで、吉川英治氏の三国志は小6で一度読破して、中学時代にも読破しました。推理ものでは綾辻行人氏の十角館の殺人にはまりアガサ・クリスティー氏の「そして誰もいなくなった」などにはまっていました。もちろん中学男子らしくジャンプマンガには一通りはまっていました。ドラゴンボール・スラムダンク・幽遊白書・ジョジョ・アウターゾーン・ろくでなしブルース・NINKU・るろうに剣心など。名作ぞろい!マガジンやサンデーもそれなりに流行っていて、はじめの一歩、うしおととら、今日から俺は!などこちらも名作ぞろいでした。
中学生の部活では剣道をやっていたので、るろうに剣心が始まっていきなり大人気になったときはちょっと得意げでした。私は何も関係ないですが。

いろいろ書きましたが、内容から分かるように中学時代は特別なことは何もなく平凡な中学時代でした。

ところで私の地元は京都府舞鶴市。京都府の北端に位置しており日本海に面したところです。隣町の宮津市には日本三景の一つ天橋立、酒呑童子で有名な大江山。別の隣町である福知山市には明智光秀ゆかりの福知山城があります。
舞鶴市は大きく西舞鶴と東舞鶴に分かれていています(行き来するのに一山超える必要がある)。
かつての軍港、現在の海上自衛隊がある町は東舞鶴です。
西舞鶴は細川幽斎ゆかりの田辺城跡の残る歴史深い町です。
高校へ進学する人で西舞鶴の人は西舞鶴高校へ、東舞鶴の人は東舞鶴高校へ行きます。他に選択肢は実質ありません。

とはいえ同一高校内で商業課科・普通科・進学科とわかれていて、中学時代そこそこ成績の良かった私は進学科の理系に進みました。

高校でも特に変わったことは無く普通の高校生活を過ごしました。特に進学科にいるとクラス替えも無く同じ担任・同じメンバーと3年間過ごしました。

小学生の時にキャプテン翼が好きだった私は高校時代サッカー部で汗を流しました。念のため言っておきますがスポーツはお世辞にも得意ではなく、せいぜい中の下。部活も万年補欠でした。

さて、高校3年生。あるいは2年生の後半。大学への進路を考える時期です。当時の本音を言えば「航空宇宙系の学科に行きたいまぁ。」でした。とはいえ進学クラスにいながらたいしてうまくもないサッカーを3年の春までキッチリやり遂げた私は、はっきり言って学業も大したことがありませんでした。

少し調べると航空宇宙学科がある大学となるとそれなりの難関校ばかり。ちょっとやそっとの努力でカバーできるとは思えませんでした。ストーリー的にはここから一念発起して頑張って狙いの大学に進学した、というものがあれば面白いのでしょうが、当時の私にそんな根性はなく(浪人できない事象もあったため)狙いを変えました。そこで照準を合わせたのが機械科でした。

なぜ機械科か?

ロボット・スペースシャトル・飛行機・船・車・バイク。

機械って格好いいな、こういうものを作る仕事もいいな、と思ったのがきっかけです。大事なポイントですが決して「こういうものを作る仕事をやりたい!」という強い思いではなく、「いいな」程度の弱い思いです。

ちなみに今振り返るとこの「作る」という部分をより明確にするならば、当時は気づいていませんでしたが「設計」ということになります。
(材料を加工して部品を作る行為や部品を組合わせて製品を作る行為ではない。)

さらに付け加えると、「設計者が一定の動作制御まで作りこむ機械、該当する物の代表例は産業用の自動機械」となるのですがそれはまたのちの話。

そうこうするうちに、担任から紹介されて受けた推薦入試で受かった群馬大学工学部機械システム工学科に進学することになりました。

*現在、群馬大学に工学部はありません。かわって理工学部があります。

◆大学から院生活

大学生になって一番びっくりしたのは「ここに来た理由が明確な奴がたくさんいる!」ということでした。

群馬大学の機械系の学科だったからよけいでしょう、周囲には「俺は車が好きで、将来は車関係の仕事をやりたいからここにきた」という同級生がたくさんいました。

それまでの私は、舞鶴市内○○地域の子どもは○○小学校へ、△△地域の子どもは△△中学へ、西舞鶴の子どもは西舞鶴高校へ。とルートが決まっていました。高校の同級生の大半は中学の頃からの知り合いで、その大半は小学生のころからの知り合いで、記憶になくともその一部は幼稚園からの知り合いです。

大学生になって初めて「自分で選んでここに来た」という人たちに会いました。ある意味で私も彼らと同じく自分で選んでここに来たのですが、明確に○○が好き!というものが無い。
ざっくりと機械が好き(かも)/自分の成績で行けそうな大学となると限られてくる/担任から勧められるままに群大を受ける/受かる/だから私は群馬に来た。

そんな自分と彼らは明確に違うと感じました。

焦りました。
彼らと同じ土俵に上がるために必死になって自分が好きと言えるものを探しました。そこから一念発起!やりたいことを見つけて学生起業して・・・、という展開があったら面白いのでしょうがそんなことはなく、マイペースに学生生活を楽しみました。
自治を営む学生寮に住み、合同コンパと称する飲み会でよくお酒も飲みました。

Twitterでたまにネタ的に「機械科と電気電子科の合同コンパ、女子はいない」といったことをつぶやくのですが、本当に男子寮なので男しかいない、各学科入り混じっての飲み会を合同コンパと称していました。

他にはバイトをやったりバンド組んでライブをやったりとそれになりに楽しんで学生生活はあっという間に終わりました。

大学4年生のときに就職か進学かを選ぶ段階で迷うことなく院へ進むことを選びました。大学3年生までの授業ではインプットが主体でアウトプットがほとんどなく、あっても授業の中どまり。外に向けたアウトプットはなかったので拍子抜けしたからです。

院は修士課程まで。つまり2年間でした。

昼間は担当教官と研究のやり方や、計測したデータの整理、整理した結果をさらに教官と議論しながら方向性を修正したり、たまにクターをやって息抜きしたりして、バイトがある日は夕方に計算を走らせてバイトに行き、バイトが無い日の夕方から夜にかけては足りないデータを追加で計測する。そんな日々でした。

ちなみに院での研究テーマはマイクロバブル発生に関するものでした。実験と数値解析の両面から行っていました。数値解析はFortran77で書かれた2.5次元(円筒座標系)でメッシュ座標と境界条件を手打ちで入力して計算するプログラムを改造して使っていました。学会発表とか論文投稿とか大変でしたが、それなりに楽しかったです。

◆就職活動

院生1年目の年明け、しばらくしてから就職活動スタートでした。早い人でGW明け、梅雨入りくらいまでには多くの人が進路決まるぐらいのスピード感でしたが私は7月の半ばまで決まりませんでした。理由は他の人と比べてこの期に及んでもやりたいことがあやふやだったからだと思います。

先に述べたように友人たちは車が好き!バイクが好き!というように好きなもの=この分野で飯食っていきたい!というものが明確でした。

私はそこまで明確に、これで食っていきたい!と言えるようなものが無く「あれも面白そう、これも面白そう」とふらふらしていました。当然これでは自分が目指す分野もわからず業界の調査も適当になってしまいます。要するに就職活動に身が入っていない状態です。

今でも一つ覚えているのが、ある会社さんの採用活動。人事に問い合わせたら基本的に採用活動は終わっているけれど、あと一人だけなら枠作れるのでとりあえず書類を送ってください。と言われて書類を送りました。そして面接に行くともう一人面接者がいました。

私と二人で通された待合室。二人の間はあいさつ程度の会話で過ごし、しばらくすると人事担当の方が来られました。するともう一人の方は素早く反応してすっと立ち、お辞儀をして挨拶。ポケっとしていた私はツーテンポほど遅れて慌ててマネをするように立ち上がる。
その後も何かあるたびに折り目正しく挨拶をする彼とワンテンポ遅れて慌てて所作をマネする私。

この面接にかける覚悟の差というものをまざまざと見せつけられました。

だからと言って私の中の何かが目覚めることは無く、何とかなるだろうという気持ちで就職活動を続けました。そのうち、進路指導担当から「きみは京都出身だったね。こんな会社あるんだけどどう?」と紹介された会社が京都に本社を置く会社でした。学校推薦でその会社に行くことになりました。
ほら、なんとかなった。
そこは就職に強いと言われる工学系の中でも特に強い機電系に身を置くものの強みです。

平凡な私の人生にドラマのような展開はない。

◆結び

こうやって改めて振り返ると就職までの自分はなんてふらふらしているんだろうと情けなくなります。いや、当時は一生懸命にやっているつもりだったんですけどね。。。
これでは後に「技術者としてやっていけるのだろうか?」と不安になるのもうなずけます。

この後、就職してからのお話しは先に書いた「転職をした方がいいのか?しない方がいいのか?迷っている技術者のための参考note」をご覧ください。

以上


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