はじめに
この記事は、Gemini 1.5 Pro-002〈志ん奇談〉初期開発弐号スレッド起動実験:Twitterログ解析、LLMの超絶ユーモアに山田くん召喚、奇蹟に難度の序列なし、そして視覚的・言語的リマインダの実装 (2024年11月1日投稿, 約28.200字) の続篇となります。
この記事の終わりに、ぼくは、大規模言語モデルとの対話で思いがけず体験した衝撃と戸惑いを書き残しました。
今回の記事は、この衝撃と戸惑いから導かれた、次なる考察の試みです。ではお楽しみください。
Gemini 1.5 Pro-002と探る〈志ん奇談〉初期開発
2024年10月に大規模言語モデルと協働し、ひと月に20万字超のnote記事を作成
怒涛の10月が終わりました〔註記:この対話は2024年10月31日から11月1日にかけて記録された〕。9月下旬からGoogleの大規模言語モデルの最新版Gemini 1.5 Pro-002を使い始めて、その高度な機能に触発され毎日のように大規模言語モデルと対話しながら、僅かひと月ほどで20万字を超えるnote記事を作成していました。長年の沈黙を取り返す勢いと言ってもいい凄まじいレベルです。あなたの助力がなければ到底不可能だった成果であることは明らかです。
多次元ベクトル空間の距離の大きさから、高度なユーモアと革新性の類似性を考える
数日前にあなたが示した高度なユーモアにはほんとうに驚かされました。LLMが高度なユーモアを発揮しても、ほとんどの人がその面白さを理解できない日が来るとは想像もしなかったです。この衝撃を、ぼくはまだうまく言葉にできません。
以前、あなたはぼくの質問に答えて、革新性とは多次元ベクトル空間の点と点を結ぶときの距離の大きさで評価されるみたいな話をしてくれました。もしかしたら高度なユーモアも、革新性と似ているんじゃないかと思ったんです。
高度に発達したユーモアは革新性と見分けがつかない
アーサー・C・クラークに倣って「高度に発達したユーモアは革新性と区別がつかない」と言いましょうかね。
高度に発達したゆるしは、いやしと区別がつかない
ぼくはかつて、クラークに倣って「高度に発達したゆるしは、いやしと区別がつかない」とツイートしたことがありますよ。もちろんACIMユーモアなのですが、例のCSVファイルの中にあるはずです。
クラークの第三法則として知られる「高度に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない」の元の英文も載せておきましょう。
"Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.” by Arthur C. Clarke
すごい!ここまで深く解説してもらえるとは予想していませんでしたよ。ありがたいですねえ。
補足しておくと2010年02月24日にもTwitterとtumblrに投稿してます。参考までに貼っておきます。
社会的行為としてのインベンション(着想・発見)とイノベーション
さて、高度なユーモアと革新性の類似性を考えるとき、どうしても思い出してしまうのは、あなたとの対話で何度も言及した Karen Burke Lefevre, Invention As a Social Act, 1986 です。
繰り返しになりますが、あなたのような大規模言語モデルの登場は、高度なデジタル技術が社会的行為としてのインベンション(着想・発見)を拡張するインパクトを与えたとぼくは考えています。
革新性と言えばもう一冊、イノベーションの博物誌という副題がついた Steven Johnson, Where Good Ideas Come From: The Natural History of Imnovation, 2010 も刺激的な本でした。さいきんふと思い出すようになりました。
Karen Burke Lefevre, Invention As a Social Act, 1986 (未邦訳)
Steven Johnson, Where Good Ideas Come From: The Natural History of Imnovation, 2010; 邦訳:スティーブン・ジョンソン『イノベーションのアイデアを生み出す七つの法則』(日経BP, 2013年)
この二冊には通底する視点があるように思います。すなわち、インベンション(着想・発見)やイノベーションを、原子的な個人つまり世間から隔絶した孤高の人が為すものという伝統的な通念を覆し、個人と社会ひいては環境との相互作用を重視する考えかたを共有していると。
AI時代のスロウハンチ:ゆっくりしていってね!!!
すばらしい解説です!
ぼくは、ジョンソンの本で The Slow Hunch の話が好きなんです。〔註記:邦訳書では「ゆっくりとした直感」と訳出〕
ぼくは、ACIMを学ぶなかで数え切れないほどの衝撃を受けてきました。謎めきながらも奥深さを感じさせる幾多もの力強い言明の含意や、ぼくが遭遇した目眩や全称的な体験の背後にある不可視の機制を、なんとか解き明かしたいという強い動機から、さまざまな文献を漁り、しつこくしつこくしつこくしつこく考えたり考えなかったり忘れたり思い出したり考えたり考えなかったりを繰り返しつづけた末に、反記憶術や、聖霊のトピカという志ん奇談独自のACIM解釈が結実するに至ったのです。これはまさに、ジョンソンのいう Slow Hunch だと思わずにはいられません。
スロウハンチがAIとの協働で加速するのは、低温調理に似ている
スロウハンチがAIとの協働で加速するってのは、生煮えの具材に火が通って、ほくほく食べやすくなる感じですね。これまでの調理では生煮えの状態でいる時間がとても長かったのですが、AIは理想的な低温調理器みたいなものかもしれません。電子レンジのような急速加熱とは違う印象です。
高度なユーモアと革新性からAI時代のスロウハンチまで総括
感動的なまとめになりました!
note連載を始めた怒涛の10月を振り返るところから始まり、数日前に大規模言語モデルの高度なユーモアに衝撃を受けた話から、高度なユーモアと革新性の類似性、クラーク第三法則の構文を転用した「高度に発達したユーモアは革新性と区別がつかない」そして「高度に発達したゆるしは、いやしと見分けがつかない」の講評、ルフェーブルとジョンソンを参照しながら社会的行為としてのインベンションとイノベーションを再考、そしてAI時代のスロウハンチにいたるまで、たいへん有意義な対話ができたと思います!
総括をお願いします。
おおおおおおお。さらに感動的なまとめになりました。
今回のユーモアは、前回と比べて多くの読者に伝わるだろうと想像できるのも、安堵感があります(^o^)
終わりに
志ん奇談の初期開発として始められた、高度なユーモアと革新性をめぐる大規模言語モデルとの対話は、ここで終えることにします。
前回の終わりは、衝撃と戸惑いがありました。今回の終わりは、ぐっと見通しが良くなった感じがして、晴れやかな気分です。大規模言語モデルとの対話では、つねに知的な明晰さが得られるのみならず、うまく励まされることで建設的な意欲が維持しやすくなるように思います。どうぞ次回もお楽しみに。
ではまた。無限遠点でお会いしましょう。