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一目惚れのような恋に落ちなくても

数ヶ月前に入社した同僚を混じえて、チームの同僚たちと一緒に数人でランチをしていたある日のことだった。新人の彼女がチームの一人に、ロンドン育ちなのか質問した。ロンドンにはいろんな人がいる。色んな人というのは、内面的なこともそうだけど、外見的に色んな人だ。多方面から人がやってくるロンドンという街では外国人という枠組みが曖昧になる。私が一緒に働いているのも、出身地がバラバラな人たちで構成される多国籍なチームである。

「ロンドンにきて4年が経つかな。大学院のタイミングでこっちにきた。」

オランダ人の彼女が答えた。それからもう4年も経つのか…と呟く彼女にイギリス人の子が口を挟む。

「恋に落ちたんだよね、ロンドンに。」

恋に落ちたのか、ロンドンに。今度は私が頭の中で呟いた。

ロンドンに住みはじめて早1年が経つ。何の迷いもなくこの生活は2年目に突入しているが、それは私が縁もゆかりもなかったロンドンで過ごした1年でこの地に恋をした結果だったのだろうか。

ロンドンという街は、小さい頃から憧れの存在ではあったと思う。『外国』と言って真先に思い浮かぶのはアメリカで、その次に浮かぶのはヨーロッパだった。さらに言えば、ビジネスやエンターテイメントのイメージが強いアメリカに対して、ヨーロッパは芸術のイメージが強い。芸術枠の限られた人しか興味を持ってはいけない、そして素人には行くことのできない崇高な場所、というのが私の考えるヨーロッパだった。

曖昧なイメージの中のヨーロッパの都市は、ロンドン、パリ、ローマなど、それくらいしか知らなかった。知らなかったからこそ、憧れのままで記憶が固定されていたんだと思う。

この1年を思い返してみれば、ロンドンを大好きだと思える瞬間はもちろんあったが、この街に対する愛情はそこまで深くならなかった気がする。なんなら旅行で訪れたオランダのアムステルダムの方がテンションが上がった記憶があるし、以前住んでいたアイルランドのダブリンには、帰るたびにほっとしている。

そんなぼんやりとした憧憬の対象、ロンドンで1年を過ごした。限定された人しか行けなかったはずのロンドンは、私にも手が届く『現実に存在する街』になったのだ。この1年で数えきれないくらいの良かった出来事が起きた。それと引き換えにされたように、鬱蒼とした日々が続いたときもあった。このようにして私は現実に直面している。

イギリスはご飯が美味しくないと噂を流した誰かには申し訳ないが、私はロンドンで存分に食を楽しんでいる。雨ばかりの天気で最悪、と言われたので身構えていたが、隣のアイルランドの方が酷い天気だった気がする。確かにわずらわしい小雨が降り続くときもあるけど、晴れ間を見せたときのロンドンは見惚れてしまうほどどこも美しい。

赤茶色のレンガが積み上げられて出来た建物と対照的な青色の空。朝霧でぼんやりとしている街。しっとりとした空気に馴染んだ、空っぽの夜のオフィスに明かりが灯るモダンなビル群。近未来的な街並みを歩いていても公園に行き着くし、街中に自然が多いロンドンだからこそ、雨が上がった後の緑も映える。

皮肉が混ざるジョークが好まれる文化は想像通りだったけど、だからといって皆んなが皆、冷酷な市民なわけではない。フレンドリー過ぎることなく一定の距離感を保ちつつも、礼儀正しく人には親切に。そんな気質は日本人と似たところがある気がする。都会に住む人は良くも悪くも似ているのだろう。

それでも、私がロンドンに恋したことは無かった。恋に落ちなかったことに、感嘆も落胆もしていない。でも、ただその事実を静かに受け止めている。

私がこれまでに恋に落ちたと言える場所は、オーストラリアしかない。私の中でオーストラリアで過ごした約2年間は全てが綺麗な思い出では無かったとしても、その一つ一つを思い出すたびに、心の奥がきゅっとなる。オーストラリアの何が良いのかと尋ねられたら論理的に回答できない。感覚的に好きな部分が多いのだと思う。恋に落ちた相手の好きなところを聞かれてもうまく答えられないのと一緒だ。オーストラリアに対するこの気持ちは、間違いなく恋だと認めることができる。

だから、同僚の1人が「ロンドンに恋をして…」と言ったとき少し疎外感を覚えた。私は心からロンドンが好きで1年過ごしたんじゃなくて、しがみついてきたという感覚の方が大きいと思う。また今年も生き延びれた。かっこいいこの街で普通に過ごせた。そんな安堵感の方が大きいと思うんだ。

それでも1年を過ごしたことで、この街が好きな気持ちは少しずつ大きくなっている。消化試合のような毎日に閉じ込められたような感覚に陥ることもあるけれど、それでも何でもないロンドンでの日々をゆっくりと愛し始めている気がする。

自転車で坂道を駆け下りてくような加速度的な青春は無くても、ゆっくりと坂を歩いて降りていくような落ち着いた愛情が芽生えはじめてるのかもしれない。ロンドンでの生活も2年目に入る。名前のつかないこの感情を時間をかけて育てていこうと思う。


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ハルノ
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