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【小説】菜々子はきっと、宇宙人(第16話)最終話

菜々子がいなくなってから約半年の月日が流れた。
もう、この町に菜々子の気配はない。

菜々子がいなくなってすぐは、町の人も、職場も人たちもなんだか物足りないといったように、「菜々子は今どうしているのかな。」と思い出話に花が咲いていた時期もあったのだけれど、時の流れというものは、過ぎ去っていく日々を、少しずつ、少しずつ、気づかないくらいのゆるやかなテンポで消化して、いい意味でも、悪い意味でも、過去のものに変えていく。
菜々子はいつのまにか過去の人になり、毎日の日常から消えゆく存在となっていた。

菜々子という存在がいなくなったことによって、一番影響を受けたのは私だと胸を張って言うことができる。朝っぱらからドアをたたいて起こされることもなくなったし、突拍子もない意味の分からない行動に振り回されることもなくなった。驚くほど静かで、穏やかな日々が目の前を流れている。

菜々子がいなくなった夏のはじまり、私は人生ではじめて、大量の梅を箱買いした。不揃いだったので価格も安く、私はその買った梅で、梅酒と、梅干しを作ることにした。
梅をボウルに入れて、やさしく水洗いし、竹串の先で1つ1つ丁寧にへたをとり、穴をあけ、クッキングペーパーで1つ1つ丁寧に水気をふき取った。そして、新しく買った梅酒の瓶の中に、その梅たちを1つ1つ丁寧に敷き詰めて、氷砂糖と、ホワイトリカーで仕上げ、私は今、その梅酒がおいしく飲める時期を待っている。
そして、梅干しの方は、しばらく塩につけこんだあと、平べったい竹ざるの上に1つ1つ丁寧に並べて、ベランダで天日干しした。約4日間くらい晴れの日の太陽にさらされた梅たちは、毎日少しずつ、ほんのりと表面が赤くなっていって、そのかわいらしい様子に、愛おしさで胸がいっぱいになった。
出来上がった梅干しは、思っていたよりも塩辛くて、とても単体だけでは食べることのできない味になってしまったのだけれど、ちょっとうすい塩おにぎりの中に入れると、とてもよいアクセントになって、職場での肉体労働のあとには欠かせない塩分補給のかなめとなった。

この梅酒や梅干しにはじまり、私は料理をすることにとにかく手間ひまをかけるようになった。時間をかけてじっくりとつくっていく料理は、私の身体の、そして心の重要な養分となった。


菜々子がいなくなった夏の真っただ中、私は新しい恋をした。
その恋は、いつもと変わらず、なかなかに手の届かない遠い存在だった。
人はよほどのことがない限り、好きになる人のタイプとか傾向といったものは変わらないのかもしれない。
手に届かなくて、遠くて、その恋に盲目的になりそうになったとき、私はミサンガを編んだ。100均で安く、何種類もの刺繍糸を買って、手の届かないあの人との思い出に浸りながら色を選んで、1本1本丁寧に、私は糸を紡いでいった。菜々子ほどの芸術的な曼荼羅を描くセンスはなかったから、ミサンガにしてみた。意外と性に合っていたらしい。盲目的に一夜限りのセックスに走ることも少なくなった。


菜々子がいなくなった夏の終わり、台風がこの山を直撃した。
強い雨と強い風の中、私は家のベランダに1人座って、目を閉じた。
菜々子の言う、自然の壮大なパワーを感じることができたのかどうかは定かではない。けれど、ここ最近の驚くほどに、静かで穏やかな毎日に突如として訪れた、その強い雨と風の中、まるで、台風のようだった菜々子との目まぐるしく激しい毎日を久しぶりに思い出して、私の心は満たされた。


菜々子がいなくなった秋のはじまり、台風が過ぎ去ったあと、早めに落下してしまったどんぐりたちを拾いに、私はたくさんのビニール袋を持ってでかけた。もちろん、横山さんがくれたハンドブックも携えて。
私はどんぐりにそれなりに詳しくなった。どんぐりだけじゃなく、針葉樹や広葉樹など、どんぐりがならない木々の名前もたくさん覚えた。
森について学ぶことは楽しい。自分のための、自分だけの時間の中で、自分の知識が、誰にも邪魔されることなく増えていくことがうれしかった。
自分の夢と言えるのかどうかはまだ、定かではないけれど、森の案内人と呼ばれる横山さんのような職業をしている人はみな、森林インストラクターという資格を取っているという話を聞き、私はその資格のテキストを買って今、森について勉強している。


菜々子はいなくなったけれど、菜々子が私の人生に残してくれた出来事たちが今、私の人生を彩り、私は毎日を生きている。


私が住むこの日本という国には、憲法があり、その憲法の第25条第一項にはこう記されている。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と。

「健康で文化的な最低限度の生活」

この言葉は、今の私の毎日を名付けるに一番ふさわしい言葉だと思う。

私は今、健康だ。
あの頃のように、不規則で、ろくに食事もせずに、肉体的にも精神的にも疲弊しているなんてことはない。毎日しっかり3食を食べ、職場で身体も動かし、規則正しい時間に起きて、規則正しい時間に寝ている。

私の生活には今、文化的な要素も多々含まれている。
ミサンガ作りや、どんぐりの勉強などが、それに当てはまっているだろう。他にもずっと忙しくて疎遠だった読書にあてる時間も、最近は増えるようになった。

そして何より、私の生活は今、最低限度だ。
「最低限度」という解釈は人によってさまざまだと思うので、賛否両論はあるかもしれない。けれど、私の今の生活を表現するには一番しっくりくる言葉だと思う。
私は今、自分自身を犠牲にして、世のため人のために、無理して働いているわけではないし、とにかく豊かな人生を送ろうと、たくさんのお金を稼ぎたいと思って、身を粉にして働いているわけでもない。
ほどよく働いて、ほどよくお金を稼いで、ほどよく娯楽を楽しんで、ほどよく好きな人たちと関わって、ほどよく規則正しい生活の毎日を楽しんでいる。

たしかに、その日々は、世の中でいう、出世や、大きな功績を遺すことや、大きな富を得るみたいなことからしたら少しちっぽけに見えてしまうかもしれない。

けれど、その、私が「最低限度」だと定義しているその生活で満足して、楽しく、充実した毎日を生きることができるのだとしたら、それはそれで人間らしく、素敵な人生なのではないかと私は今、そう思っている。

菜々子と過ごしてきた日々の中で、私は何かに縛り付けられているという感覚が驚くほどになくなった。仕事に、人間関係に、世間の目に、さまざまな縛り付けは私を苦しめていた。
けれど今、私を縛り付けているものと言ったら、菜々子がいなくなったこの町で、今もなお生活する中で、気配として唯一残していったあおとそらみという2匹の金魚がいることによって、遠出ができないことと、私の足に結びつけられたミサンガによって、私の足首にささやかな違和感が残っていることだけな気がしている。
人生で、縛り付けられるものとしては、そのくらいがちょうどいい。そんなことを思う。


菜々子はきっと、宇宙人。


ずっとそうだと思っていた。彼女の人間離れした、突拍子もない思考回路と行動は、いつだって私含むたくさんの人たちを惑わせ、困惑させた。
どうやったら、そんな人間になれるのだろうか。そもそも人間ではないのかもしれない。と何度思わされたことだろう。

けれど、、、

私の人生や生活は、彼女と出会ったことによって驚くほどに変わった。
変わってはいるのだけれど、別に偉業を成し遂げたとかそんなことでは全然ない。一言で言えば、最低限度の生活を手に入れて、人間らしく生きることができるようになったと、そう定義づけることができると思う。

「人間らしく生きる」

抽象的な表現だが、どんなに具体的に表現しようとしてもこの一言に尽きてしまう。そして、一番人間離れしていると思っていた人物から、その概念を教わったのだから、いささか違和感しかないけれど、でも、菜々子は一番人間らしく生きていて、そこから、学びを得たことは多い。


菜々子はきっと、地球人。

なのだと思う。今日もきっと地球のどこかで、生態系の中で生きる生き物として、誰よりも人間らしく、誰よりも、地球の大地にしっかりと足を付けて、青い空を仰ぎながら、菜々子は今日も、菜々子の道を歩いている。


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