【性被害者が加害者に抗えない理由。原作『先生の白い嘘』が描く被害者心理について】
漫画『先生の白い嘘』(講談社)に出会ったのは、発信活動をはじめるより少し前のことだった。鳥飼茜氏による原作は、「性被害」の実態を容赦なく描いている。被害そのものにとどまらず、被害者が陥りやすい防衛機制までもが生々しく表現されており、いち当事者である私は、読みながら何度も息を呑んだ。
全八巻に及ぶ本作は、序盤から性被害の描写が登場する。主人公は、高校教師の原美鈴。彼女が主な被害者として描かれているが、本書において、登場人物の大半が何らかの被害者であり、何らかの加害者でもある。美鈴もまた、例外ではない。
美鈴の友人・渕野美奈子が、婚約者と共に結婚の報告をする場面から物語ははじまる。美奈子の婚約者として同席したのは、早藤雅巳。この早藤こそが、美鈴をはじめとして多くの女性に性暴力を振るう加害者当人である。早藤は、処女で男性慣れしていない女性でなければ興奮しない。美鈴は、美奈子のアパートで、友人不在の隙を突かれて早藤に襲われた。「誰かたすけ」という美鈴の叫びは、最後の「て」を発するより早く、加害者に塞がれた。
美鈴は、その後も折に触れて早藤からの呼び出しを受け、性行為を強要される。陰部の写真を撮られ、それをネタに脅される描写もあり、ニ人は明らかに支配・被支配の関係にあった。
最初の被害後、美鈴が放心状態で思ったことを、私自身も幾度となく感じてきた。私は、実父から長年、性虐待を受けていた。その環境から逃げ出す過程で、複数回、別の性被害を受けた。父からのそれも、他人からのそれも、強く抵抗できた試しがない。抵抗すればさらに痛い目に遭う。もっと酷いことが起きる。幼少期にすり込まれた恐怖は、未だ拭えない。
被害に遭った際、明確に相手を憎み、法的に罰することができれば、本来それが一番だろう。だが、被害者が「被害を自覚して訴える」ことのハードルは、世間が思うよりもはるかに高い。
専門家の間ではすでに常識となっているが、性被害者はショック状態により、本来望む行動とは真逆の行動をとることがある。「従順・懐柔反応」はその最たるもので、自らの命を守るために加害者を必要以上に刺激しないよう、できるだけ従順にふるまう。しかし、この恐怖心からくる防衛機制が理解されることは少なく、「抵抗しなかった(から同意だった)」と認識されてしまうことも珍しくない。
防衛機制は被害最中だけではなく、被害後も起こる。「被害の否認」は、多くの性被害者が経験している。自分が性被害に遭ったことを認めたくない。認めてしまったら、それまでの自分が壊れてしまう。だから、「なかったこと」にする。「大したことじゃない」と思い込もうとしたり、「同意だった」と自分に言い聞かせるなど、自分が「傷ついていない」ことにしようと躍起になる。この心理は、上記の「従順・懐柔反応」以上に理解されにくい傾向にある。
だが、鳥飼先生は、この心理を理解した上で本作を描かれた。本書の映画化にあたり、鳥飼先生が寄せたコメントを読み、私はそのことを確信した。
性被害者が、加害者の呼び出しに抗えない理由は一つではない。恐怖、支配、認知の歪み。さまざまな要因が重なった結果、被害者は「逃げる」選択肢を奪われる。外側からは、それが「自らの選択」に見えるのかもしれない。だが、そうではない。被害者は、被害により多くのものを奪われている。その結果、細く険しい獣道だけが「自分が進むべき道だ」と思い込まされ、逡巡しながらも進んでしまう。引き返したいと思っても、そのときには恐ろしいほど多くを失ったあとで、取り戻せないものが後方に山積している。
早藤から性暴力を受けた被害者の一人である玲菜は、被害後、早藤に一方的な愛情を抱く。だが、それも防衛機制が働いた結果であることは、本作を最後まで読めば自ずと感じとることができるだろう。
本作の最終巻(八巻)で、美鈴はある質問を投げかけられる。
この質問に対する美鈴の答えを読んだとき、私の心は静かに共鳴した。該当の描写・台詞は本作の肝であるため、引用は差し控える。すでに読了された方で、この台詞に心を掬い上げられた当事者は多かろう。
加害者は、往々にして被害者に「お前もこうなることを望んでいたんだろう」「お前も本当は気持ちいいんだろう」などとのたまい、精神的な意味でも被害者をなぶる。そのような台詞で羞恥心を植え付け、強く抵抗できない相手に「お前が悪い」と自責の念を植え付ける。その首木を被害者本人が外すのは、容易なことではない。だが、心の奥底ではずっと思っている。抗っている。
そうじゃない。
そんなこと望んでいない。
私は、ただの一度だって、本心から「気持ちいい」と思ったことなんてなかった。
被害時においても体が反応するのは、ただの生理現象だ。私の場合、長年の性虐待の影響により、わずかな刺激で体が反応する。渇いた状態で挿入される痛みに、心身が耐えきれなかった結果である。だが、「濡れている」=「快楽を感じている」と認識する人は多い。
本作で描かれるのは、性暴力だけではない。人間関係の軋轢、家族ゆえ逃れられない呪縛、痛みの先にあるかすかな光、人が人を想う気持ちなど、実に多様な感情があふれている。きれいなだけの人間などいない。だが、真っ黒なだけの人間もいない。そう思わせてくれる力が、本書にはある。
本作が映画化されるにあたり、公式HPのあらすじに以下のような記載があった。
こちらの文言は現在は修正されており、「快楽に溺れ」の部分が削除されている。だが、削除に至った経緯・理由について、未だ公式からの説明はない。
本作を描いた理由について、鳥飼先生は次のように述べている。
このような気概で描かれた作品において、性被害者が加害者からの呼び出しに抗えない理由を「快楽に溺れ」と表記することが、性被害当事者にとってどれほど心を抉られるものか、今一度考えていただきたい。これは、個人の“傷つき”の話ではない。性暴力を真っ向から描いた作品の映像化にあたり、加害者が被害者に嵌める首木と同様の文言を制作サイドが使ったことに対する批判である。
削除したということは、少なからず「問題があった」と感じたからだと受けとめている。しかし、それなら尚さら、問題点と今後の対応策を公表してほしい。公式HPの文言だけを変えても、各メディアに共有したあらすじの文言はそのまま残っている。表象だけを変えても、意味はない。
同映画において、主演俳優がインティマシー・コーディネーター(以下、IC)を要望したにもかかわらず監督が却下した件についても、大きな議論が起こっている。その点については、多くの識者が表明している通り、やはりICを入れて撮影を進めてほしかった。ICは国内に二人しかおらず、スケジューリングの関係で難しい場合もあろう。だが、「入れたかったがスケジュールが合わなかった」のと、「間に人を入れたくないから却下した」のとでは、話がまったく違ってくる。
撮影時、ICに代わる対応が取られていたとしても、それはあくまで専門外のスタッフが対応したに過ぎない。特に身体の安全確保と心理面のケアにおいて、外部の専門家がいるかどうかで、役者の負担は大幅に変わる。チームの信頼関係が築けていたかどうかは、その場にいた当事者でなければわからないだろう。だが、「信頼関係を築けている撮影チームにおいては、インティマシー・コーディネーターは不要」という考えが浸透するのは危うい。「信頼関係」の度合いは、主観によりいかようにも変化する。築けていると思っているのが片側だけの場合も少なくない。
刀などの武器を扱うシーンに殺陣師が必須なように、性的なシーン、ましてや性暴力に関する描写を撮影する際には、ICの存在は必須である。これは、被害者役を演じる人のためだけではなく、加害者役を演じる人のためでもある。どちら共に相当な負荷がかかるであろうことは、想像に難くない。
あらすじの文言を誰が決めたかは明らかになっておらず、映画が原作と大きくかけ離れているかどうかは、断言できるものではない。「快楽に溺れ」て早藤に会うことを拒めずにいる美鈴、というストーリーならば、原作とはまるで違う物語になる。だが、あらすじの文言が制作物とイコールであるとは限らず、その点においては慎重に議論すべきであると感じる。少なくとも私個人として、主演の奈緒さんのインタビューを拝読した限りでは、原作から大きく外れたストーリーではないように感じている。
このような問題が噴出した際、常々思うことがある。文言を決めた人物や監督など、誰か一人を槍玉にあげて締め上げれば解決する類の話ではない、と。制作には多くの人が携わっており、何度もさまざまな方向性からチェックをしただろう。よって、特定の誰かに全責任を背負わせる話ではなく、業界全体で考えていかなければならない問題ではないだろうか。
原作に心を救われた者として、今回の件はどうしても見過ごすことができなかった。言葉にすることで誰かが傷ついたり、責めを負うであろうことは重々理解している。だから、このような文書を公開するのは、いつもひどく怖い。
願わくば、伝えたい思いが曲解されることなく、大きくも小さくもされず、届くことを願う。
◇◇◇
本記事を執筆するにあたり、引用した記事、ならびに拝読した記事、書籍を以下に掲載します。
【書籍】
『先生の白い嘘』(鳥飼茜氏/講談社)
『当事者は嘘をつく』(小松原織香氏/筑摩書房)
『トラウマと記憶〜脳・身体に刻まれた過去からの回復』(ピーター・A・ラヴィーン氏/訳者=花丘ちぐさ/春秋社)
『性暴力被害の実際―被害はどのように起き,どう回復するのか』(齋藤梓氏、大竹裕子氏編著/金剛出版)
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