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「棒人間」RADWIMPS 『フランケンシュタインの恋』

 最近、内容は覚えていないのですがこの曲がインスタグラムのリールにBGMとして添えられているのにたまたま出会いました。
 なんて懐かしい!この魅力的な歌い出し!
 すぐにSpotifyへと飛び、お気に入りプレイリストにこの曲を招待しました。
 

 この曲は私が高校2年生の時に放送されていたドラマ[フランケンシュタインの恋]の主題歌でした。
 私自身、[君の名は]以来RADWIMPSを認知したにわかちゅうのにわかです。世界観にあってねぇこと言ってんじゃねぇよと激高された方はごめんなさい。
 
 ねぇ僕は人間じゃないんです
 ほんとにごめんなさい

 ねぇ、と語りかけるアカペラから、優しいピアノが合流し、のびやかに明るく進むこの曲。終始私が知っている、RADっぽいというか、なんというか、な爽やかな調子で進んでいきます。
 けれどどこか寂しそうな、孤独感を感じさせる歌詞と緩急がなんだか頭から離れないのです。
 現代で目覚めたフランケンシュタインの目を通して描かれる人間社会、初めての恋、彼の葛藤。
 それらを描く『フランケンシュタインの恋』に優しく寄り添うような『棒人間』。当時、17歳だった私は、この曲をまっすぐにフランケンシュタインのケンさんの目線を音楽にのせてんのか!すげぇ!と思っていました。
 しかし5年が経過し、この曲と再会したとき、私はあの時とは違う感情がこの曲で掻き立てられました。

 どうして人間ではないことを謝る必要があるのでしょうか?ケンさんは人外でありながら、それこそ人一倍繊細で感受性も豊か。確かに人間ではありますが、劣っているとひとくくりにできるとは思えません。
 ケンさんが望む恋愛や社会に溶け込む、といったことは全て、今この世の中、人外だけでなく、人間全般で『普通』の象徴として求められていることなのです。 
 できて当たり前。むしろ、昔の平家一門よろしく、『普通にあらずんば人にあらず』といった調子です。
 現代に突然現れたフランケンシュタインの起こすドタバタラブロマンス。それだけでは『棒人間』も『フランケンシュタインの恋』も片付けきれないような気がするのです。
 そんな違和感。
ドラマの中でケンさんが目指す『人間』、『棒人間』の中で目指している『人間』。 それはみんながいつのまにか各々目指さなければと心の中に飼っている『普通』なのでないでしょうか?

 誰かのために生きてみたいな
 生まれた意味を遺してみたいな
 この期に及んでまだ人間みたいなことをぬかしているのです
 
 『誰かのために生きる』『生まれた意味を遺す』なんて、あまりにもみんなが目指すべきと思われていることです。
 このフレーズは、そんな風に生きるなんて、とっても人間らしいね、と逆説的に野田洋次郎が微笑みを浮かべながら言ってきているような気がします。
 彼も人間なはずなのに、こんなに人間を客観的に描く、まるで人外の立場からのように自分を見るなんて。
 恐ろしい才能を持ったアーティストだなぁなんてにわかながら思ってしまいます。崇め奉る人がいるのも納得です。


 そしてラストのサビ。

 僕も人間でいいんですか?
 ねぇ誰か答えてよ
 見よう見まねで生きている僕を許してくれますか
 
 気が付けば見えない誰かに認められることを目的に生きてしまっている気がする、そんな毎日をはっとさせてくれるフレーズのように感じました。
 ドラマの中のケンさんは懸命に人間になじもうと努力しますが、うまくいかずそのたびに悲しい顔をしていました。
 私はこんなに一生懸命にやっているのにそんなに悲しい顔しないで、頑張ってるよ!なんて心で綾野剛応援隊を召還していたのですが。
 今になって、誰かに受け入れてもらいたい。そのために求められているような気がすることをやり遂げたい。そう思う気持ちは分かったような気がします。
 自分よりも優れた、より『人間』な、『普通』な人がたくさんいるような社会で暮らしていると、ふと私も『人外』、『フランケンシュタイン』なんじゃないか、なんて思う気がするのです。
 どうしてあの人はこれできるのに私はできないんだろう。あのひとなんてもうあんなところにいるのに、私はいつまでたってもここにいるなぁ。とか。
 あまりにも自分を周りと比べてしまいがちな日々の中で、私はこの人間になりたいと切望する『棒人間』に、そんな不完全なはずの自分を肯定してもらえた気がしたのです。
 この気づきを忘れずに残しておきたいと思ってしまったのです。
 
 『棒人間』ありがとう。私なりに『人間』目指しつつ、頑張ってみるわ。

 

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