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恋ひ初めの街②【第1話】『雨傘』(水無月)




1 嫌悪の街

 こんな街は嫌いだ。
 当時の面影はない。バス停の位置だけだ。確かにあの日以来ここに存在し続けている事実しかない。
 辺りを見渡してみる。
 あのとき、バス同士が辛うじて擦れ違うだけの幅しかなかった砂利道は、反対側の小川を越えて拡張され、アスファルトで舗装された。暗渠化された小川は、道路下の暗闇に閉ざされ、命の息吹は聞こえてはこない。古い木造の民家群と田畑のみの風景は全て冷たい人工の石の下に埋もれてしまった。
 天を仰ぐと、ビル影が背後から迫り、息苦しい。うつむけば、雨に濡れた歩道が足音に華やいで、やけに寂しさを誘う。
 じめっと粘り気を帯びた空気が、淀みの底から私を包んで汗の蒸発を妨げ、肌に絡んで重たく全身が気だるい。街じゅうが既に飽和状態で余分な水分を贅沢にも吐き出すことしかできない。雨水はいかなる野生にも命を授けることすら許されず、死に場所を求めてさまようしか術はない。何ものをも受け入れず、コーティングされてしまい、傷つくことを頑なに拒んでいるかのようだ。
 皐月のむせるような新芽や真夏の乾いた土や水無月の氾濫寸前の濁った川面の匂いをかぎたいと思った。


2 母の匂い、沁みた場所

 子供の頃、この場所で母の帰りを待っていた。
 小学一年の夏休みが始まって数日が経った月曜日の午後三時過ぎ。炎天下、夢中で蟻の行列を目で追っていると、母は笑いながらバスから降りて歩み寄り、そっと日傘をかざしてくれた。母の行動の一部始終を確かめて、また視線を蟻の行列に移す。
 耳鳴りと肌に伝播する空気の振動を頼りに遠ざかるバスの気配をやり過ごした。乾いた土埃と排気ガスの残臭がたちこめ、しばらく息を止める。息を吸い込んだとき、それに紛れて背後に微かな生臭さが漂ってくる。日に蒸され、発汗した皮膚からたちのぼる臭気だ。母のにおいである。母はハンカチで私の額の汗を拭いながら「暑かったでしょ、さあ、帰ろうね」と手を差し伸べてきた。頷いてその手を握り、立ち上がる。母を見上げて笑うと、母も私の顔を覗き込みながら笑みを返してくれる。母の手は石鹸のにおいがした。少しでも異臭を残すまいと苦心したらしいことは少女の私にも見当はついていた。魚臭さと石鹸と汗が入り混じった母のにおいはちっとも嫌いではなかった。これが私の『お母さんの匂い』だったから。
 母はバスで十五分ほどいった商店街の鮮魚店で働いていた。私には既に父はなく、面影は写真でしか知らない。私が二つのときに病で死んだのだ。父の温もりすら覚えのない私には、母だけが心のよすがだった。
 私は当時のこの場所が好きだった。


3 故郷の屍

 ぼんやりと故郷のかばねの上に構築された向かいのビル群を見回す。
 色同士が乱舞している。我も我もとひとつの原色がを押し退けて争っているようにしか見えない。取り澄まし、着飾れば裏の顔はけがれにまみれているように思える。それがこの街の表情だ。
 自分の生まれ育った場所は当然いつまでも変わらぬものだと決めつけていた。だが、永遠などありはしないのだ。
 そっと目を閉じる。脳裏に浮かぶ風景は最早セピア色と化してしまったが、寒々しさはない。モノクロームだが、どこか温もりのある当時の風情がいい。センチメンタリズムなどと揶揄やゆされようと、少なくとも寂しさはなかった。
 目を開けると、正面には、ビルの谷間から高架線がわずかに覗いている。数十メートル先に私鉄の駅がある。高架になって、駅は数百メートル移動してきた。沿線には徐々にマンションが建ち並び、今では商業ビルや遊興施設も駅を囲むようにひしめき合っている。昼夜を問わず賑わうようになり、眠らぬ街が完成した。これが発展なのか、といつも首を傾げたくなる。人口の増加と引きかえに、大袈裟にいえば、『慈悲』や『寛容』だとかいう感情は『我』にのみ向けられるのだろう。古きを破壊してまで折角、見映えのする利便性で包み込まれたというのに、なぜか街に漂うのは寂寥せきりょう感だけだ。これが都会化という意味なら、なるほどこの街には哀しい気配があふれてしまったわけだ。
 足が痛い。うつむいて足元を覗き込んだ。履き慣れないハイヒールのせいだ。今は少し後悔している。だが、誰しも背伸びしたいとき、どうしてもすべき瞬間はあるものだ。あの日から数えて今日が丁度十年目なのだから。


4 初めての出会い

 あの日は、梅雨入り直後の土曜日の昼下がりだった。
 外出先から帰宅し、ひとり昼食をとっていると、突然、地面を叩きつける雨音がした。食べ終え、空模様をしばらく確認して母の帰宅する時刻が迫ると、母の傘を手に迎えに出た。
 母を待ちながらバス停の前に佇んでいた。傘を打つ雨粒のリズムを聴くうちに、鼻歌で自分の旋律を奏でていた。
「シェルブールの雨傘だね」
 一瞬全身の神経が膠着こうちゃくして反射的に声のほうを向いた。
「ピッタリの曲だね」
 こうもり傘の下から腕が伸びて、左で雨粒を受けながら傍へ歩み寄り、微笑みかける。横に立った少年は私より首ひとつも高かった。
 私は顔が熱くなっていた。傘を少しだけ傾け、顔を隠す。
「あっ、ごめんね、ビックリさせて。僕もお気に入りの曲だったから……」
 ドギマギしながら赤面したことを悟られまいと取り繕おうとして必死に声を振り絞った。が、どうしてもうまく発声できない。結局無駄な抵抗は途中で諦めて、傘の陰から少し気取って笑みを返した。
「その映画好きなの? ドヌーヴがいいね」
 ──映画?
 少年を一瞥いちべつして目を泳がせる。映画の曲だったのか。一度ラジオから流れてきたのを聴いただけだった。
 ──ドヌーブって何だろう?
「ぼく、サトウイチロウっていいます」
 傘の陰から見え隠れする少年の顔を、幾分うつむいたまま上目遣いでまた一瞥してすぐに視線を落とした。少年の声は甲高くはなく、声変わりの途中なのか少し掠れているようだった。なのに、淀みなどなく、乾いた砂地に雨垂れが緩やかな一筋の流れを形成するように、優しく私の鼓膜へと浸み込んだ。
「わ、わたし、石川弘美といいます」
 慌てて自己紹介をして、軽くお辞儀をする。顔を上げながら、少年の足元から順番に服装が目に焼きついた。白のスニーカー、ブルージーンズ、純白のTシャツ。若干大人びた感じで私よりも年上に思えた。清潔感にあふれていた。白や青というのはそう感じさせる色なんだと私の思考にはすり込まれている。実際、少年のTシャツからは洗剤の匂いしかしなかった。汗臭さは微塵もなく、少年が動く度に仄かなシャンプーのさわやかなも漂ってくる。気が遠くなるかのようにシルエットはぼやけ、一層顔が熱くなる。
 ひと通りの儀礼を済ませて目の焦点を戻しながらまた下を向く。表情を悟られまいと必死に赤い傘で身をやつした。傘の色が保護色になってくれることを期待する。相手の視線を酷く意識しながら身を強張らせ、思わず唾を飲み込んだ。
「君、どこの学校なの?」
「わたし、玉川小学校です」
 嫌味な印象を植えつけまい、と仕種しぐさ声音こわねで己自身を純白に装った。
「何年生?」
「六年です」
 少年は急に体ごとこちらに向き直り、まっすぐ私を見た。私ときたら、足は車道を向いたまま時折上半身をほんの少しだけ相手に向けるだけで、決して面と向かって対することはできないでいた。
「同じ学校だったんだね。ぼく、六年一組なんだ。君は?」
 私は大きく目を見開いて、視線を辛うじて左斜め上方の少年の顔に向けて固まってしまった。すぐには声が出なかった。同い年だとわかって少しだけ気分は楽にはなっていた。早速小さくため息をついて気を取り直し、質問に対する答えを用意する。
「三組」
 今度は『です』『ます』調はやめた。
「そうか、校舎が違うもんね」
 そうなのだ。一組と二組は去年増築された新校舎で、三組から五組までが旧校舎だったのだ。だからこの少年に見覚えがないのも当然なんだと一瞬思ったが、すぐにおかしいと気づいた。
「でも、あなたのこと見かけたことないんだけど……全校朝礼のときにも。転校生?」
「そう、先月、転校してきたんだ」
「そうなの」
「でもね、一年生のときはこの学校にいたんだよ」
「そうなの! 何組だった? わたし、五組だったけど……」
「四組だよ」
「隣の教室だったの?」
 記憶の片隅から少年の面影をさがしてみる。ひと欠片かけらも転がってない。
「覚えてなくて当然かも。今よりずっとチビで全然目立たなかったから……」
 私の悩む表情を見て悟ったらしく、すぐに返答してくれた。
「ごめんなさい……」
「父の仕事の都合でね、いったりきたりさ。ホント嫌になるよ」
 そう言い放ったときの表情の崩れ様とぐったり肩を落とす仕種が余りにも大袈裟で、それが何とも滑稽だった。思わず声を出して笑ってしまった。気づけばいつしか私もまっすぐに少年と向かい合っていた。
「そうなの?」
 快活に聞き返した直後、少し自分にがっかりした。肯定するときも、質問するときも『そうなの』のひと言しか出ない稚拙ちせつさに腹が立った。
「そして、また明日にはここを離れるんだよ」
 少年は大きくため息をつくと、残念そうに首を横に振る仕種をした。
「転校してきたばかりなのに?」
 転校の経験がない私は少し驚いて語気を強めた。
「うん。友達と別れるのは辛いなあ」
「友達作る暇もないんじゃないの?」
「普通はね。こんなに頻繁だと、そうかもね。でも一年のときからの友達がぼくにはいるしね」
「ああ、そうね……」
 同情のトーンで頷いてみせる。
 私には友達が大勢いる。入学して以来努めて友達作りに励んできたから。仲のいい友達と離ればなれになるなんて想像もできないし、自分には耐えられそうにない。きっと泣き暮らすだろう。
「それで、今度はどこに転校するの?」
「アメリカ」
「外国の?」
 真顔で聞き返した。しまった、と苦笑いでごまかす。
 少年も今の私の表情を見て、唇を緩めた。それは嫌味っぽい笑みではなく、私に対しての礼儀をわきまえた優しさにあふれていた。この目が捉えた少年の色彩が心に塗り重ねられる。しっとりと濡れたまま織り成す暖色に、乾いた我が胸は潤った。
 初めてだ。男の子が自分に対してこんな表情や仕種を見せるなんて。女の子にこんな思いやりを示す男子など皆無だった。せいぜい照れ隠しにおどけたり馬鹿な顔するだけだ。少しばかり憧れの眼差しを向けていたクラスメイトの男の子だってそうだ。今、突然その子の顔が浮かんだ。大層幼い印象が、私の心からその面影を弾き飛ばしてしまった。
 ──サトウイチロウ……
 そう、今、目の前に立っている人物の名だ。私の目はいつしかサトウイチロウに釘づけになっていた。そしたらお互いの視線が直線上に結ばれた。一瞬息が止まり、慌てて二度続けて息を吸い込んだ。喉が鳴り、ヒクヒクと小さく胸がけいれんを起こした。
 彼も察してくれたらしく、笑顔のまま静かに視線を自らの足元に落とした。
「遠いよねえ……」
 彼の声が私の耳に余韻を残して周りの空気に溶け込んで消えた。「遠いよねえ……」頭の中に何度も木霊する。
 しばらく沈黙が続いた。ほんの十数秒だったに違いない。だが、こんなときはかなり長い時間に感じるものなのだ。とても耐え切れずに私は口を開いた。
「いつまで? いつ、戻るの?」
「たぶん、大学まで向こうだと思う」
 彼は私に顔を向けると、ゆっくりと首を横に振る。
「そうなの……」
 しっかり発音したつもりが、声は口元だけに漂うばかりだった。自分に納得させるだけの儀式に過ぎなかった。
 ぼんやりと想像してみる。大学までということは、今から十年も先。二十二歳までということになる。それまで、一度も会えないのだろうか。二人はこのまま一生会えないで終わるってこともあり得るのだ、今日を限りに。
 ──何て残酷なんだろう!
 ──出会ったばかりなのに!
 何者かが冷たい手を胸の深部に突っ込み、鷲づかみに体温を奪い去ろうとする。何とか声を発して抵抗を試みるものの叶わず、さっきまで温かな潤いを保っていた胸は凍てつき、鈍痛が走る。着氷した心は重みにしおれ、引きずられるように伏目がちに私の視線も自ずと地面に吸い込まれた。
 二人の間に長い沈黙が訪れた。話しかけたくても喉元は相変わらず凍えてばかりで通り道は細く塞がれ、ひと言も循環できない。
 沈黙を破ったのはイチロウだった。それをきっかけに、言葉は少しずつだがほぐされ、私のほうも次第に話題が広がってゆき、私たちは色々なことを話した。永遠に会えないと思ったら、恥ずかしさと臆病は大胆さと勇気に変わった。何を話したのか、全く記憶にない。ただ、胸の奥がむずがゆさを伴って痛く、それが幸福感を誘うものなんだと魂に刻まれている。
 夢そのものだった。同い年の異性とあれほど真剣に語り合ったことは初めてだったし、自分も彼によって大人へと一歩引き上げられた気がする。今でも疑わない。自分を大人にしてくれるのは、親でも同性の友人でもない。異性だけが良きにつけ、悪しきにつけ、高みへと導いてくれるのだと。
 私たち、少なくとも私は夢中だった。語り合う二人の間にも時は流れる。気づけば一時間以上も経っていた。その間、数台のバスが通り過ぎた。雨もいつしかやみ、雲間から日も差していた。路面に落ちた二人の長い影が夕刻を告げている。
 お互いどちらからともなく傘を畳んだ。彼は私を見る。夕日を正面から浴びた彼の瞳がさざ波の反射のようにきらめいてまぶしく、凍てついた胸は解氷され再び濡れ始めた。温もりは緩やかに全身を巡り、このまなこまでをもうるませる。魂は彼の瞳の奥底に溶け込んだ。
 三度みたびの沈黙が訪れた。今度は視線を決して逸らさずにまっすぐ彼の目を見つめた。彼も唇に笑みをたたえたまま、瞳には私の姿がくっきりと映し出されていた。
「もういかないと……」
 甘美な声だった。だが、その声に私はこちらの世界へと引き戻された。
「そう、なの……?」
 私は悟った。夢から覚めるときがきたのだ。
「ねえ、それ、僕にくれない?」
 彼は軽く頷いたあとで、目を輝かせた。急に、私の髪に手を伸ばしかけたが、途中でやめ、自分の後ろ髪を束ねる振りをしてから私の後頭部を指差した。そしてジーンズのポケットから鍵を取り出すと、自分の目線の高さに摘まみ上げた。
「これと交換しよう?」
 ずいぶんと古めかしい鍵だった。時代劇に出てきそうな錠前の鍵みたいな。それとも洋館の鍵なのか。たぶんそうだ。大邸宅なんだ。外国にゆくんだもの、そうに決まってるわ。
「カギ? でも……」
 私は口ごもる。
「大丈夫。もう戻らないし……」
 そうか。やっぱりその家には帰らないんだ、永遠に。私は勝手に大邸宅だと決めつけた。
 私は大きく頷くと、髪を束ねていた輪ゴムに赤い二つの玉のついた髪留めを急いで外し、彼と同じように自分の目線に掲げた。目配せして、ほぼ同時にお互いの贈り物を相手に差し出す。私の掌にズシリとした重みが伝わった。
「記念ね」
「そう。二人が初めて出会った記念だよ」
 ──初めての出会い……
 私は彼の言葉に酔った。
 私たちはもう一度記念品をお互いの目線に掲げると、見つめ合い笑った。突然、彼の視線が私を飛び越えて後方へ注がれた。私もその視線の先を追う。振り向くと、遠くのバスが次第に近づいていた。「来ないで!」心の中で叫びながら胸が高鳴る。急いで私は視線を彼に戻した。もうすぐ、恐らく何年も、彼の顔を見られなくなる。そう思った私の顔はどんなだったか自分では知るよしもないが、胸は張り裂けんばかりにうずいた。私は胸いっぱいに息を吸い込み、言葉もろとも一気に吐き出した。
「もう、いってしまうの?」
 振り絞って放った声は震えた。唇も心もおびえに共鳴した。
「また会おうね。ゼッタイに!」
 力強い彼の声だった。そのとき私は悟った。彼はやっぱりこのバスに乗るんだと。私は深呼吸をして息を整え、腹部に力を込める。
「ゼッタイよ!」
 バスの音が近づいてくる。私は振り向かない。一秒でも彼の顔から目を逸らすまいと思った。彼の面影を焼きつけておくのだ。
「ああ、約束だよ!」
「会いましょうね!」
「そうだ! 十年後の今日、今のこの時間に、僕はここにいるよ。必ずいるよ!」
 彼の強い口調に私は思わず涙ぐんでしまった。彼はやはり静かに微笑んでいる。
 バスは轟音を立てて停まった。扉が開く音が聞こえる。彼はゆっくりと私の前から消えようとした。バスに乗り込むと、ステップで一旦体ごとこちらに向き直り私を見つめる。私はどうしても声が出ない。涙で彼の顔がゆがんでくる。彼は笑っているのに。私も必死に笑顔をつくろうとするが、かえって悲しさが込み上げてくる。どうすればいいのかもわからない。咄嗟とっさに右手に握り締めていた鍵をまた掲げた。彼も同じことをしてくれた。
「忘れない。ゼッタイに……」
 彼が言い終わらないうちに突然ドアが閉まって、バスは発車した。
 私は彼の姿をさがした。彼は車内を移動して、走り去ろうとするバスの後部座席の窓から顔を出し、大きく手を振った。私の目から大粒のしずくが止めなく流れ落ちる。彼の手には私の髪留めの二つの赤い玉が揺らめいていた。
 ──十年後の今日、私もここにいる!
 私は心の中で叫んだ。

     *

 彼が乗ったバスを見送ったあと、バスの軌跡を追いながら泣き続けていた。なぜか涙は止まらなかった。あまり人通りのない場所だったが、それでもたまに通りすがりの人に声をかけられた。首を横に振って見せるだけが精一杯で、人目もはばからず泣いたのだ。胸の奥からそこはかとなく突き上げるような、そして何かに押しつぶされるような痛みに似たもの。それが何なのかわかるはずもなかった。泣くことでしか波のように押し寄せる初めての感情の表現をまだ知らなかったから。
 そのうち母の乗ったバスが到着した。バスから降りた母は血相を変えて駆け寄ってきた。青ざめた顔で私を問いただす。私は途切れ途切れに、たった今、友達が転校していったとだけ告げた。母は納得し、私の肩を抱きかかえてくれた。そしてそのまま母と帰途に就いたのだ。
 雨のあとに残ったものは、真っ赤な夕映えだった。それは悲しみの色として長らく私の意識の底に沈められたのだった。

     *

 数日後、ミスを犯したことに気づいた。なぜ彼の転校先の住所を聞かなかったのか、と。お互いに教え合えばよかったのに。彼がアメリカの住所をまだ知らなくても、こちらの住所と電話番号を告げてさえいれば、連絡の取りようもあるではないか。私はずいぶん後悔したものだった。そして、ひと月余りが過ぎようとしたとき、ひとつの名案が浮かんだ。一組の担任なら当然連絡先を知っているに違いない。
 夏休み直前のある日の放課後、職員室を訪ねた。一組の担任の席へ進み、傍に立って一度唾を飲み込む。ひと通りの儀礼を済ませ、本題を切り出した。大勢の教員の視線が一斉に注がれる。鼓動は激しく打ち、顔に全身の血が集中し、顔面が腫れ上がった感覚に襲われた。こめかみの血管がズキズキと痛み出す。
 だが、捨て身の策も結局無駄骨だった。在学中は事ある毎に、この先生の元を訪ねたが、彼からの連絡はなしつぶてだった。卒業式当日、何か少しでも手掛かりがあれば教えてくれるように頼んで私は校門をあとにした。
 初恋ではなかった。それはもうとっくに済ませていた。サトウイチロウは何かが違っていた。それまでの淡い恋とは明らかに何かが。それが何であったのかは、思春期を待たねばわかりはしなかった。答えを知ったとき、あれもやはり初恋だと悟ったけれど。


5 約束だから

 私はあの日を思い出しながら笑っていた。
 雨足が強くなってきた。左の掌を広げ雨を受けると、傘を開く。赤い折り畳み傘である。雨粒が傘を打つ。規則正しく叩く。頭の中であの日の曲を奏でる。ひっきりなしに車がゆき交っている。人通りも昔と比べものにならないくらいだ。
 ふとうつむくと、車道のくぼみの水溜りに目が留まった。引っかけられないように歩道の後ろへ移ろうと身をひるがえした。ノースリーブの水色のワンピースを着て、素足に白いハイヒールを履き、赤いエナメル製の安物ハンドバッグを意気揚々と提げた彼女が近づいてくる。一枚のガラス越しにいっとき見つめ合う。私が一度ため息をついたら、相手も同じことをした。相手の姿を上から下へと目線を落とし細かに観察したあと、横に立つマネキンと見比べながらあざけってやった。前髪の乱れを右手で整え、肩あたりまでの黒髪をスッとかき上げる。あの日とさほど変わらぬ長さだ。今でも普段は決まって後ろに束ねている。昨日美容院へもいったし、今日は大分オシャレもしてきたつもりだ。「バカみたい」心の中でつぶやきながら何だかおかしくなってくる。私は笑いをこらえ再び身をひるがえし、ショーウインドーに浮かぶ影に別れを告げた。
 左はす向かいの駐車場の奥に五階建ての内科医院がある。玄関上の丸い時計は、もうすぐ三時半を指そうとしている。五時まで待つと決めた。あと一時間半だけ待って帰る。
「バカよね。きっと来ないわ」
 約束だから、自分から破りたくはないだけ。ただそれだけなんだ、と強がってみても、やはり期待してしまう。まあ、少しでも望みは持つべきだろう。
 相変わらず雨は降り続く。


6 思春期の幻影

 私の思春期といえば、佐藤一郎の幻影を追い求め続ける日々だった。いつも例の鍵を見つめながら彼を思っていた。突然彼が現れ、私を優しく抱き締めてくれる場面を想像する。男性を見るとき、決まって彼と重ねてしまう。あの面影に似た顔をさがすのだ。だが、そんな男性は現れるはずもなく、ため息をつくばかりだった。佐藤一郎は完璧だ。長身で美男子で、私を見つめる目は澄み切ってにごりはない。時がつにつれ、それは自分の理想にデフォルメされていた。
 私はベッドの上で、鍵を見つめながら、いつか彼がこの鍵で私の扉を開けてくれはしないか、と胸をふくらませ目を閉じる。最早、まぶたの裏にはデフォルメされた彼の顔とたくましい肉体しか映らない。私は身じろぎもせず彼のなすがままに任せるのだ。鼓動が早くなり、全身が熱くなる。下腹部に何度も波が押し寄せては引き、やがて堤を破って次第に大きくうねり出す。私はそれを鎮める方法を知っている。私は激しく体を揺さ振りながら大波に小舟を漕ぎ出す。彼はまだ私に向かって波を起こし舟を揺らす。私は一層激しくをかいて抵抗を試みるものの、大波の勢いに負け、ついに身を委ねる。そうして何度も大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。最後は自ら波間に身を沈めてしまう。私は打ち上げられ、徐々に凪が訪れる。静かに目を開け、すぐにまた目を閉じる。焦点が定まるまでしばらくその状態を保つのだ。
 喜びと寂しさ、やがて虚しさ。様々な感情が入り乱れ、心に押し寄せる。己の憐れさを嘲り、さげすみ、後悔しながらも繰り返し求めてしまう。仕方のないことかもしれない。
 波に打ち負かされたあと、無性に彼が恋しい。妄想ではなく生身の彼の温もりが恋しい。そして悟るのだ。彼は私の初めての恋なのだ、と。


7 ウインドウーの虚像

 私なんてちっとも美人じゃない。
 親戚連中は「十人並みが一番よ」なんて無責任ななぐさめ方しかしない。
 ──十人並み?
 ──普通ってこと?
 美人でもないし、ブスってわけでもない。どちらかというと、美人でないほうの部類という意味だわ。そんなこと本人が一番知ってることよ。わざわざ面と向かって言わなくたって……。余計に傷つくというもの。
 ──私ってそんな慰められ方されるほど酷いの? 
 私はまたウインドーを覗き込んだ。薄ぼんやりとガラスの向こうに浮かぶ相手を睨みつけてみる。擦れ違った男どもが皆振り返るほどの美貌なんて要らない。もてたいなんて思わない。だけど少なくとも彼が気に入ってくれる程度で満足する。私は心の中で神様に両手を合わせた。
 確かに色気なんて、まだない。男にびるなんてのも嫌。こんなに色白じゃない。目だって大きいし、鼻だって低いけど結構可愛らしい。唇だってセクシーとは言い難いが、そこそこ形いいのがちゃんとついてる。脚だって長い美脚、とはお世辞にもいえない。胸だって小振り。けど、全体的には細身でなかなかスタイルはいいほうだわ。
 私は大きく深呼吸した。「よし」と回れ右をして、自分の虚像と決別した。
 ──自信を持ちなさい、弘美!
 もう一度医院の時計を見た。四時半を少し回っている。私の目の前を様々な影がき立てるような早足で擦れ違ってゆく。めまぐるしく流れ去る波から目を背けたら、どこからともなく焼き魚の匂いが漂ってきた。
さばの塩焼きね」
 つぶやいて匂いの源流をさぐる。たぶんこの通りに面したスーパーの惣菜屋からだろう。その匂いを辿って、視線を向かいのビル群の右端のほうへ滑らせた。交差点で信号待ちのバスが目に留まった。こちらにくるのか、それとも左右どちらかに曲がるのか。もしかして、あのバスに彼は乗ってはいまいか。だが、しばらくすると、バスは進行方向を左に折れ、視界から消えてしまった。私の鼻腔びこうに焼き魚の匂いがこびりついて空の胃袋が鳴った。ふと母を思う。


8 思慕から未来へ

 母は二年前に逝った。心筋梗塞だった。不整脈は以前より出ていたが、医者も心配いらないと太鼓判を押してくれていたし、本人もさほど気にしていなかった。たぶん病的なものだとは思わなかったのだろう。
 早朝、台所に立って朝食の支度の最中に倒れた。辛そうな表情で「大丈夫よ」と息も絶え絶えにつぶやいた。最初の発作でそのまま召されたのだった。
 私は慌てて救急車を呼んだ。そのあとのことはあまり覚えていない。まさか、母を奪われるとはこれっぽっちも考えもしなかった。食卓には鯖の塩焼きが、一切れずつ小皿に取り分けられ、それぞれの席に載っていた。私は母の亡骸を寝室に寝かせたまま台所に入ると、放心状態でそれを眺めていた。大学一年のキャンパス生活にも慣れ、ようやく充実してきた暮の寒い朝だった。
 喪失感と悲しみ、怒りに苛まれながら一年を過ごした頃、やっと立ち直ることができた。ひとりで生きねば、と決意し、あっという間に今日を迎えたのだ。
 高校を出てすぐに就職するつもりでいたのだが、高三の秋に担任に呼び出され、進学を促された。最後の三者面談の際にも担任は母に強く進言した。母はそのとき初めて私の考えを知った。
 母は最初から私を進学させたいと思ってくれていたが、私は頑として拒否するつもりだった。母を楽にさせてやりたい。その一念だったから。だが、母の説得についに私のほうが折れたのだ。
 思案の末、働きながら通える夜間部への進学を決めた。私立だったが、学費もなんとか母に負担をかけずにやっていけそうだった。深く考えて学部を選択したわけではない。たまたま商学部だったので、在学中に資格を取得するにも好都合だと思い至ったのだ。私は普通高校に入ったことを幾分後悔していた。商業科なら、もう少し就職にも資格を取るにも有利だったかもしれないと思っていたから。
 就職を決めて入学するつもりでいたが、母も周りの者も慌てることはないと強く助言をくれ、アルバイトをしながらということにした。早朝の新聞配達から始まって、午前中はファーストフード店で、午後は五時まで飲食店で仕事に勤しんだ。そのあと六時から九時頃まで講義を受ける。私には学生気分など微塵もなく、早く社会に馴染むことしか頭にはなかった。
 母の三回忌の法要を済ませて間もなく、得意な英語を生かして翻訳の仕事も請けるようになった。最初はさほどの収入にはならなかったが、そのうち独力で医学の勉強を始め、知識を少しずつ積み重ねつつ今では他のアルバイトは全て辞め、フリーランスで医学専門に絞って翻訳だけで生活費と学費を賄うまでに至った。このまま卒業してもこの仕事だけでじゅうぶんにやっていけるのだが、やはり実社会に身を置きたい。生来の寂しがりやな人好きからか、孤独な作業よりも人とかかわって生きたいと切望している。どこかの翻訳会社に就職するのもひとつの手かもしれないが、別の分野の世界も覗いてみたい、可能性をフルに発揮してみたい願望──否、欲望というべきかもしれない──のほうが勝っている。そして今は就職活動中なのだ。だが、今日ばかりはリクルートスーツは脱ぎ捨ててきたけれど。
「お母さん、お母さん……」
 何度かつぶやいてみた。頭の中で母の声が木霊する。
「弘美、好きな人はいないの?」
「うん……まだね」
「どんな人を選ぶのかしらね、弘美は」
「優しい人ね、きっと。現れるかなあ……? 私って、美人じゃないし……」
「あらっ、そんなふうに思ってたの? あなたは美人よ、とても」
「ありがとう、お母さん。それって親の欲目ってやつね。でもいいの、慰めてくれなくても。身のほどは知ってるつもり」
「そうかしら? わからないのは本人ばかりなり、じゃない?」
 母はそう言って声を上げて笑った。「そのうち、きっといい人が現れるわよ。あなたみたいな美人、誰もほっとかないのよ。お母さんの娘でしょ」
「もう、娘をからかって……」
 私はふくれっ面を見せる。「娘で遊ばないの!」
 ゲラゲラ笑っていた母を、私も笑いながら睨みつけてやった。
「弘美……」
「なに、まだなにか?」
 私は取り澄ました。
「幸せになるのよ」
 母はこちらに優しい眼差しを向けた。私は仕方なく首を折って母を一瞥いちべつした。その顔がやけに老けて見えた。母は炬燵こたつを抜け出て夕食の支度に取りかかり始めた。私は何度も母のせた後姿に目をやった。とても幸せな気分だったが、それがなぜか私の心に寂しさを誘ってきた。母の頼りなげな背中に一抹の胸騒ぎを覚えたのだった。それが何だったのかわからなかったが、翌朝、母は呆気なく逝ってしまった。今にして思えば、あれが虫の知らせだったのだろうか。
「私、幸せになるからね」
 空に向かってささやいた。自然と涙があふれそうになる。しかし、今はぐっと飲み込んだ。母と二人だけの生活を懐かしむ代わりに、私は未来を想像しようと思った。そうすれば、涙はこぼれはしない。


9 予感

 脳裏にふと昨日の出来事がよぎった。
「あの人は……?」
 確か、キャンパスで見かけたことがある。いや、最初に見たのは入学式会場へ向かうバスの中だ。それから二、三度、遠くから見かけただけだ。同じ学部ではないはずだ。私がキャンパスにいるのは夜だけだから、その時間に出くわすことはまずない。なぜ昨日に限って……。たぶんサークルか何かの都合だったのだろう。
 私が大学前のバス停でバスに乗り込んだとき、遠くのほうから手を振りながら彼は追いかけてきた。私は車窓からその様子を眺めていた。何か叫んでいたようだ。その声はだんだん近づいてきたが、内容までは聞き取れなかった。たぶん乗り遅れまいとして運転手を呼び止めていたに違いない。それにしても、彼の視線は私のほうにしか向いていなかったように思う。まあ、それも気のせいかもしれない。でも、そういうことにしといてもいいような気もするが。男性に追いかけられるなんて、悪い気はしないから。
 ──私、そんなにうぬぼれ屋じゃない。
 私はうつむいてクスッと笑った。
 彼も男性としてはなかなかかもしれないが、佐藤一郎には遠く及びはしなかった。また、彼の幻と重ねている。今となっては彼とてどれほどのものか。自分の都合のいいようにデフォルメされたに過ぎないのに。
 身のほどを知るべきかも。ペンギンは所詮飛べやしないし、気高けだかく華麗に舞う丹頂鶴たんちょうづるにはなれない。でも愛敬がある。それで満足しないと。それなのに相手には完璧を求めるなんて、愚かしい。滑稽極まりない。と、自分を叱りつけもする。
 皆なんてとっかえひっかえ、異性とうまくやっているのに、自分ときたら幻影に取りかれて何の進展もないなんて。たまには恨みごとも言いたくなる。責任を彼の幻に転嫁てんかしてもしょうがない。自分の性格なのだから。でもそれを認めてしまっては立つ瀬がないというもの。惨め過ぎる。女なの。だから少しぐらいは我がままでいてもいい気がする。そんな女を装ってみてもいつも中途半端なのが悲しい。私は自分を嘲笑した。
 そんなことをぐだぐだと考え、右手で髪をかき上げながら、ふと視線を滑らせた。目は一点に釘づけになり、息を呑んだ。例のキャンパスの彼が、こちらに近づいてくる。
 ──なぜ、こんな所に!
 目を合わせないよう咄嗟とっさに傘で顔を隠した。
 彼は私の前で一旦立ち止まった。その足元だけが見える。車道のほうを向いていた。私は息をひそめて、早く去ってくれるよう祈った。ほどなくして願いは叶った。彼の足は、ゆっくりとその場から離れかけた。傘の陰から遠ざかるその後姿を確認すると、フウッと大きく息をついて胸を撫で下ろす。
「ああ、ビックリした!」
 少々声が大きかったようだ。若いカップルが怪訝けげんそうに私を見ながら通り過ぎてゆく。私はまた傘で顔を隠す。そして腕時計を覗いた。もうすぐ五時だ。五時まで待ったら、帰ろうと決めた。私は腕時計と睨めっこを決め込むと、時が満ちるのを待つ。
 ──あと五分……
 そして、一分前。腕時計の秒針を追いかけ、心の中でカウントダウンを開始する。
 ──三十秒……二十秒……十秒前……
 針は初恋の終焉しゅうえんを刻み続ける。大きく深呼吸を繰り返す。
 ──五、四……
「さあ、帰ろう」
 ──三、二、一……
「タイムオーバー」
 私は天を仰いだ。「さようなら、私の……」
 震える胸に十年分の想いが去来する。唾液を飲み込み、胸につかえたものを落とし込む。うつむいて息を整える。静かに目を閉じ、顔を上げゆっくりと目を開ける。
 雨はいつしかすっかりやんでいた。傘を畳んで、例の彼とは逆方向へ歩き出した。そのとき、スマホが鳴った。しばらくメロディを奏で続ける。ドヌーヴが私の脳内で役を演じ始めた。立ち止まり、ハンドバッグからスマホを取り出すと耳に当てる。
「もしもし、石川ですけど……」
 相手の反応はない。「もしもし? どちら様ですか?」
 間違えてかかってきたのだと思い、耳から少し離しかけたとき、ようやく反応が返ってきた。最初、何と言ったのか聞き取れなかった。辛うじて語尾だけを拾うことはできた。
「……だね」
 男性の声だ。内定の一報だろうかとの期待に、いささか慌て気味に小さく深呼吸して息を整え覚悟を決めた。よそゆきの言葉を用意する。
「あの、石川でございます」
「シェルブールの雨傘だね」
 今度ははっきりと聞き取った。
「な、何です?」
「ピッタリの曲だね。あっ、ごめんね、ビックリさせて。僕もお気に入りの曲だから……」
「そ、そうなの……?」
 素っ頓狂な声で答える。「どちら様……でしょう……?」
 相手は何も答えない。と、突然、切断音が鼓膜を突き刺した。だが、私はスマホを耳に当てたまま呆然とする。何が何だか、何が我が身に降りかかったのか、全く理解できない。
「シェルブールの雨傘だね」
 背後で声がした。私は振り返った。キャンパスの彼が立っている。彼は自分のスマホを掲げ、それを揺らしながら笑っていた。ストラップに目が留まった。丸いものが二つ見える。赤色だった。私は口をいて固まった。
「久しぶり。元気だった?」
 彼はゆっくりと私のほうへ歩み寄った。
 私は金縛りに遭ったように手足が膠着こうちゃくした。やっとの思いで、声を絞り出してみる。
「ど、どうして……?」
 彼は愉快そうに声を上げて笑い出す。
「君の友達に聞いたんだ昨日、君の番号。君を追いかけて、バスに乗り遅れたあとに」
「私……入学式の日にあなたを見かけた。キャンパスでも二、三度……」
 私の思考は混乱を来す。「……あなた、ダレ?」
「僕もまさか君だとは気づかなかったよ。数日前までは。君の名前を偶然耳にしたんだ。その人に君のことを尋ねて、昨日、君を追いかけたんだけど、間に合わなかった」
「そ、そうなの? 私、全然気づかなかった。同じ大学だなんて……大学までは向こうだって……」
「ハイスクールまではいたけど、帰りたくてね。とうとう家族を向こうに残して、僕ひとり帰国したんだ」
「そうなの」
 自分の声が野鳥のさえずりにしか聞こえない。正しい発音かさえ怪しかった。私は瞬きも忘れて彼を凝視した。
「ねえ。顔に何かついてる?」
「本当に佐藤一郎君……なの?」
 彼は軽く頷いた。
「それより、スマホ……切れてるはずだよ」
 彼は微笑みながら自分のスマホを切る振りをした。
 スマホは、まだ私の左耳にしがみついていた。ハッとして耳から引き離し、自分の目線に掲げて肩をすくめる。ストラップの鍵が揺れる。また、彼も私にならって同じ仕種しぐさを繰り返す。
 ようやく冷静さを取り戻したところで、彼の頭から爪先までを舐め回すように視線を這わせて、そのいでたちを確認した。不意に、フフフっと吹き出してしまった。彼は頭をかきながら首を傾げる。口元は相変わらず笑みをたたえたままで。
「だって、あのときと同じだから……」
「何の、こと?」
「わざとなの?」
 彼はまた頭をかきかき首を捻った。と、左手の甲に右肘を乗せ、人差し指と親指で顎をさすりながら眉をひそめた。それから口をすぼめ、何度か首を横に振って両手でお手上げのポーズを決めた。
 ──アメリカ仕込みなのね。
 私は、思わず手を口に当て、声を押し殺しながら笑った。
「ねえ、教えてくれない?」
 私は彼の傍まで寄ると、ショーウインドーを指差す。指先の延長線上に彼の視線は向けられた。
「本当に気がつかない?」
「うん、映ってるね」
 彼はショーウインドーと私を交互に見ると、また首を捻る。
「同じでしょ? あの日と。白のTシャツ、ブルージーンズ、白のスニーカー。とても爽やかよ。それに……」
 私は彼に鼻を近づけて、犬がするようにクンクンと鼻を鳴らして見せた。
「そんなに臭う?」
 彼は自分のTシャツの胸元を摘まんで鼻に近づける。
「そう、プンプンよ。洗剤とシャンプーの爽やかな……あのときと全く同じ匂い」
「そうだっけ? 覚えてないんだ。だけど君だって同じだよ」
「えっ! 何のこと?」
 私の正面に回り込んだ彼は、全身の輪郭りんかくを両の手でかたどったあと、不意に傘を奪って開いた。微笑みながらクルクルと回す。
「これさ。君のことはよく覚えてるよ。水色のワンピースに赤い雨傘。爽やかだよ、相変わらず。それに……」
 彼は傘を畳んで私がしたように犬の真似を始める。「いい匂い。全て同じだ、あのときと」
 彼の胸板が目の前に接近し過ぎて、私の顔は熱くなった。
「そ、そう、なの?」
「懐かしいね、それ」
「何が?」
「君の口癖」
「口癖?」
「そうなの」
 彼は私の口真似で大きく首を上下させ頷いて、おどけて見せる。と、私の顔は蒸され、今にも湯気が立ち上りそうになる。
「わ、私、バカみたいでしょ?」
 彼は少し屈むと、この顔を覗き込んだ。私の目線に合わせ、そのまましばらく見つめた。お互いの視線が一直線上に結ばれる。それから言い放った。
「そうなの?」
 彼の行為に息が止まった。胸が高鳴る。彼にそっぽを向くと、踵を返し、いきなり歩き出した。彼は小走りに私を追いかけ、横にピタリと並ぶと、また私の顔を覗き込む。私は自らの胸を押さえながら肩を竦め、舌を出した。そして、私たちは並んでしばらく歩いた。時折彼の横顔に視線を注ぎながら。たまに視線が合うと、彼は微笑んでくれる。
「ねえ、私、実を言うと……あの映画、まだまともに観たことないの。いつも途中で寝てしまうのね。ちょっと苦手なジャンルみたい」
「ミュージカル?」
「ええ。あなたはいつ頃観たの?」
「観たことないよ、一度も」
「えっ! でも、あのときの口ぶりなんか……。観たことないの、アメリカに住んでたのに?」
「うん。それに、あれフランス映画だよ」
「そうなの?」
「ドヌーヴはいいけど……」
「ああいう……」
 グラマラスな女性が好みなの、と思わず言いかけたが、寸でのところで飲み込んだ。自分の胸元を覗き、がっかりしながら苦笑する。
「なに?」
 私は、何でもないわ、と首を横に振った。
「どうして、一度も……?」
「ミュージカルだろう。しかも全編だよ。退屈じゃないのかなあ……?」
「ヒドイ! 私、てっきり……」
 予期せぬ彼の言葉に、私の足は制動をかけられた。「だましたのね!」
「だましたわけじゃ……曲は好きだよ、とっても」
 私は膨れっ面をして彼を睨んだ。ただし目には笑みがこぼれる。彼も立ち止まって肩を竦めた。
「それはないわよ!」
「僕たち、趣味が合うね」
 愉快そうな彼の声に、耳がこそばゆい。
「私、今の今まで観なかったこと気にしてたのに!」
 語気を強めて責め立てると、彼はまた私の顔を覗き込んできた。あまりにも近かったので私は少しのけ反った。
「そうなの?」
 彼はそう言うなり歩き出した。私はすぐさま体勢を立て直し、追いかける。
「そう、なの!」
 追いついて歩調を合わせながら一層語気を強めた。
「悪いのは……ぼく?」
「そう、なの!」
 二人は声高に笑い合った。胸の奥がくすぐったい。
 しばらく並んで歩いていると、突然、彼は歩みを緩めた。私も数歩いって立ち止まり、彼を振り返る。
「どうかした?」
「ねえ。背、ずいぶん高くなったね……」
 そういえば、あのときは、彼が頭ひとつ分ほど飛び出ていた。しかし、私の目線は今、彼の唇あたりを見ている。また、あの痛みがぶり返してきた。
「忘れてた!」
「何のこと?」
 私は顔をしかめながら屈むと、ハイヒールを足からもぎ取って右手に持ち、爪先で立った。彼を横目で見ながらゆっくりと地べたにかかとを下ろす。素足にひんやりとした感触が心地いい。やはり、彼は長身だった。これで全てがあの日と同じになった。
 辺りを見渡した。今きた方向に歯科医院を見つけ、小走りにそこを目指す。彼も私のあとを追ってきた。医院のドアをそっと開け、ハイヒールを玄関にそろえてドアを閉めた。そして何食わぬ顔で胸を張り、堂々とした態度で歩き出す。その間、彼は目を丸くしながら私の行動を眺めていた。彼が追いついて横に並んだとき、私は気取ってウインクして微笑む。彼は私の足元を呆れ顔で見下ろしながら、楽しそうに声を上げて笑った。
「私にはスニーカーのほうが似合うみたい」
 微笑んだまま深々と頷いてくれた。
「ちょっと待って」
 彼はストラップを外し、両手で私の髪を後ろで束ねると、髪留めで括ってくれた。彼の手から伝わるなだらかな感触に心身からだの奥底が震え出した。大きく深呼吸をして、辛うじて心の平静へいせいを保つと、うつむき加減に彼の表情を確かめながら微笑みかける。言葉など今は何の役にも立たない。
「これで完璧。全てが同じになった」
 胸底に落ちた声のつぶては波紋を起こし、体の深部までをも揺さ振りながら締めつけ、上気させる。高揚した気持ちをおさめきれぬまま、私は肩を竦め彼に寄り添うと、その腕にしがみついた。だが、彼は私の行為を拒絶し、強引に腕を引き離した。孤独な風がひんやりと胸を渡り、凍えさせ、私は戸惑ってその場に立ち尽くしてしまった。と、彼は口元に笑みを浮かべながら私の手を握り締め、引き寄せた。掌に彼の温もりが、じかに伝わる。その手に操られる様に、この体は彼の意志に従った。彼が歩を進めると同時に足は自ずとそちらへとなびいていった。胸辺りまでもが熱くなる。
 目の前に大きな水溜りが立ちはだかり、二人のゆく手を遮った。すると、突如私の体は宙に浮き、水溜りを越えてゆく。この体は今、彼の腕にすっぽりとおさまっていた。彼は人目もはばからず私を抱きかかえたのだ。
「あの店でスニーカーを買おうよ」
 靴屋の看板が目に入った。私はたくましい腕の中で小さく頷いた。擦れ違う人たちが皆、私たちを振り返りながら通り過ぎる。彼はまっすぐ前を向いて進む。
 ──これもアメリカ仕込みなのね……
 私は両手で顔を覆った。だが、どういうわけかそれほどの羞恥心しゅうちしんはなかった。
 彼はしばらく私を抱きかかえたまま歩いた。
「ねえ、下ろして」
「店の中まで構わないよ」
「いいの、ここで」
 私はずっとこのままでいたかった。全身で彼の体温を抱き締めていたかった。だが、じかに自らの足で地面を踏み締めなければと思った。彼は優しく私を下ろしてくれた。
「さあ、行きましょう」
 靴屋はもうすぐだ。私たちはまた肩を並べて歩いた。夕日が眩しい。私は目を細めた。そして彼の横顔を見つめた。夕日に浮かぶ彼の瞳はさざ波の反射のように揺れている。
 夕映えの色は最早悲しみの色ではない。
 空を見上げれば、ビルの谷間から夕映えに誘われて小さな虹が現れた。辺りを見渡すと、七色の色彩で街並が虹と呼応しながら私たちへのささやかな祝福をくれる。
 これから何かが始まるのだろうか。そうかもしれない。私は長い間待ち続けた。私たちは予感だけを胸に秘めながら一歩ずつ踏み出すのだった。
 こんな街も悪くはない、と私は思った。

【第一話】〈了〉


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