#2 号泣したことのある人へ
号泣の眼の端をゆくかたつむり
お笑いのコントなら「おい!」とツッコミたくなる下五(5・7・5の2つ目の5)。
一読した時にクスッと笑ってしまったほど、「かたつむり」という夏の季語にやられてしまった。
号泣、最後にしたのはいつだろう。
ただ泣くのではなく、号泣。ドラマや映画、音楽や優しい一言、大切な人との永遠の別れなど、涙することは時々あっても、号泣って……、うーん、うーん、9年ぐらいしてないかも(爆)。
それに引き換え、赤ちゃんはすごい! 全身全霊で真っ赤になるほど泣き叫ぶ。時折、電車の中や街中で見かけるけれど、泣くことへの全力ぶりに内心、惚れ惚れとしている。
そして、涙を引きずらないところもあっぱれだ。数秒後ににっこりしたり、ツワモノは笑い声をあげたりする。完敗だ。もうひれ伏したくなるほどリスペクトしてしまう。
感情は出してもいいが引きずるな
そう何十人の赤ちゃんに教えてもらったことか。そして、未だにその域に達していない自分がいる。「人間は進化じゃなく退化している」なんて大上段に構える人も、きっと同じ穴のムジナだ。さあ、ともに赤ちゃん超えをめざそう!
大人になればなるほど難易度が上がる号泣だが、誰もがみな、数えきれないほどやってきた。
号泣したのがいつだったかなんて、もう思い出せなくてもいい。記憶の断片、体の隅々には「号泣」がしっかり刻まれているはずだ。
自分ではどうすることもできない、ほとばしる感情。悲しすぎて、悔しすぎて、みじめすぎてなど、嬉し涙の最上級よりも、ネガティブな感情の沸点にある号泣。そんな我を忘れてワーワー泣いている時に、ふと眼にしてしまったのである。
か・た・つ・む・り
を。
……どうしますか? どうなりますか?
どうぞゆっくり考えてみてください。相手はかたつむりです。急ぐことはありません(注:かたつむりを見下してません)。
号泣中の思ってみなかった、かたつむりとの遭遇。
それは朝寝坊した時に見る目覚まし時計と、どこか似ている。
時計の針がしめす時刻を一瞬全否定するフリーズ↓ 「嘘だろっ」と思いながら現実を再確認する凝視↓ 本人も驚くほどの俊敏な行動(身支度)
かたつむりなら……
悲劇真っ最中の空気を読まないかたつむりの存在否定 ↓ 意味もなくかたつむりの動向を観察 ↓ 本人も驚くほど引いてゆく涙
泣くていた自分を客観視さえして、おもわず笑ってしまうかもしれない。
「何泣いてるんだろう」
そう思わせるかたつむりの存在は、偉大だ。
なぐさめたり、気の利いた言葉をかけたり、一緒に朝まで飲み明かしてくれたわけでもない。
ただ、居たのだ。それもたまたま。
感情大爆発の人間を、その存在だけでで泣き止まらせる。人間に「泣き止んでほしい」という希望も抱かず、なんとか涙を止めようという意志もない。無我の境地。
そんな偉業をどれだけの人ができるだろうか。私はできない。
あぁ、かたつむりにも完敗である。
ま、そもそも赤ちゃんにも、かたつむりにも勝負を挑んでいないから、勝ち負けもないのだけれど、号泣した人に遭遇した時には、せめてかたつむりをそっと置いて去るぐらいのやさしさはもちたい。
ここで注意したいのは、なめくじではなく、あくまでかたつむりであること。もしかしたらオモチャで代替えできるかもしれない(成功したらぜひコメントを!)。
そして、ここで斜め右上から意外な意見が飛び込んでくる。
「この句、号泣している時にかたつむりを見たのではなく、頬を伝う涙の後をかたつむりという比喩で表したのではないか」
とか
「スペインの画家、サルバドール・ダリの絵のように、号泣する人の眼とその端を這うかたつむりをコラージュしたシュールな絵画を表現しているのではないか」
そういう読みもできる面白さが、この句にはある。俳句は読み手に全てをゆだねている。どんな風景が広がろうが、どんな解釈をしようが自由だ。正解、不正解はない。
繰り返しになるけれど、最後にこう書いて締めくくりたい。
号泣する人あればかたつむりをそっと置き、 号泣しそうになったらこの句をそらんじる。 そういう者に私はなりたい。
俳句の作者は津島康子さんでした。
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