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69年。

自分のことでいっぱいいっぱいになると、微熱が出る。なにがしかのサインなのにだからといってどう休んだらいいかもわからずに心だけが急いて、気が付いたらひと月経っていた。久しぶりに中学からの親友と会って、映画を見てカラオケに行きサイゼでだべって彼女の家に泊まった。私に似たさみしがり屋でマイナス思考で、不器用なのに心根がまじめすぎて自己肯定感の低い女の子だ。世界の何一つとして思った通りにはいかないし、自分の身一つですらどうすることもできないことばかり。

彼女と一緒にいるとき、たぶん私は一番心の柔らかいところがむき出しになってしまうのだがおそらく彼女もそうで、「今後も適度に依存しあいながら死なないように生きていこうね。」なんてことを話したりした。


以前、先輩に「はるのちゃんは人間愛がある人だね。」と言われたことがある。いまいちピントは来なかったが普通にうれしかった。でも同じ人に「どこか達観していて、熱中したり夢中になったりするんだけどそんな自分のことも一歩引いたところから見ているような気がする。」とも言われた。なんだかこっちもしっくりきた。

自分の人格の根幹はとにかく十代のころに形作られたものだけれど、二十歳になっていろんな人と話すようになって私は口を開かなればいわゆる、若くて素直でまじめな女の子、という風に見えているのだと気づいた。新宿を歩いていたら一日に二度ナンパされかけて無視して歩いた時も思った。そして私自身が知らない人のことを勝手にカテゴライズしてその他大勢の群衆としてしか認識していない瞬間があることにも。


全ての人が自分と同じように感覚と感情をもって存在してるってことを本当は知っているのに忘れるのは、そうしないと生きていけないからなんじゃないかと思う。どこか遠くの誰かの悲劇に心は痛めても本当に自分の身内のように感じていたらひと月と経たないうちにげっそりとやせ細ってしまうのではないだろうか。大人が子供であったことを忘れないといられないのと同じように。


私に見えてる世界なんてせいぜいこんなものだ。

自分の存在意義とか生まれてきたわけなんて、ずっと、一生懸命にひたすらに生きて最期の時にやっとわかるものなのだろうと思っていたけれど、私の祖母は今89歳で、体はそこそこ元気だけど私と姉と母と叔母の誰が誰だか全然わかっていない。そんな様子の祖母を見ていると、やはり存在理由なんてきっと自分が何をしたか、どう生きたかだけで、きっと天から与えられた使命とか何かのための存在とかなんてものはなくて、ただそこに在り生きていることが意味なんだろうと思う。祖父は私が生まれるはるか前に亡くなっていて祖母は当時大変な苦労をしたと聞いている。この間日脚ぶりに祖母の家でご飯を食べていた時に、「お父さんは、ずっと昔に死んじゃったわよね。でも最近しょっちゅう会ってる気がするのよ。」といっていた。私はこの人の89年の人生のことなんか何にもわからないし想像もできないのだと思った。幼いころはとにかく元気で優しくてかわいいものをたくさん買ってくれて、八十を超えてから大人気のかっこいい俳優さんに入れあげて映画も全部見ていたおばあちゃんで、でもそれは私という孫から見た祖母のすべてであって、この人のことを人間として理解したことなんて、きっと一度だってなかったのだ。


69年後、私は祖母のように生きているかはわからない。これから順調にいけばわたしは、三十歳になり四十歳になり、重ねるごとに母や祖母を理解していくのだろうか。途方もない時間。知らないうちに品定めされる新宿、いつも誰かが怒っているSNS、思うように進まない自分のすべてすら、本当には何もわかっていないのに。いつか何か、避けてしまう身内の悲しみさえも受け止められるのだろうか。



とりあえず、私はおばあちゃんになってもサイゼでだべった親友と一緒にいられたらうれしい。






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