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第五章

芳明の風景 月光

 月の光が明るすぎて、星たちはその姿を隠してしまっていた。排気ガスに汚染されていない空は、普段なら数え切れないほどの宝石のようなきらめきに包まれているのだろう。
「芳明。あの子と一緒にいることの意味を、お前はそのうち知るだろう。そのとき、怖れずに一緒に歩いていくことができるように。今理解することはできなくても、あの子が見ている世界を見るようにしなさい」
 キヨさんは、僕とふたりになると、彼女が抱えている未来のことを話してくれた。彼女が選ぶかもしれない、ひとつの未来のことを。
「そうなるかもしれない。そうはならないかもしれない。
 それは、一瞬一瞬の選択の上に成り立っている未来だからだ。けれどね、芳明。あの子が、そのことを本心で望んでいるならば、きっといつの日か大きな選択の瞬間を迎えることになる。
 それがどういうものなのか、おばあにもみえないさ。けれど、芳明にならわかるはずさ。あの子とその瞬間をともに迎え、それを越えてゆくようにお前はあの子といることを選んでいるのだから。
 芳明、だからといってね、未来を恐れることはない。
 未来は今の積み重ねでしかないからさ。勇気を持って、自分を信じて、お前の道を歩いてゆきなさい。それはとっても簡単なことさ。今を大切にして、ここにいるってことさ。大地に足をしっかりとつけて、ゆっくりと息をして目の前にあるものを、ただ大切にするだけさ。それは、丁寧に生きるということだよ。どんなものよりも強いのは、そういうことだわけ。それ以上は、おばあに言えることはなにもないさ」
 キヨさんのいうその瞬間がどういうものなのか、僕にはなにもわからない。これ以上に大変なことが彼女に降りかかってくるのか、それを僕と一緒に迎えることになるのか。それは一体いつのことなんだろうか。僕は、その瞬間、彼女のことをしっかりと守ることができるだろうか・・・。
 僕らは龍宮城の入り口の近くにある鍾乳洞を探索する旅に出た。一般的にはほとんど知られてはいないその洞窟の近くには、海の中に沈んだ先文明の遺跡といわれる海底遺跡や海底鍾乳洞があると言われている。
 三日間の歩みを終えて龍の海へとたどり着いた彼女は、人が変わってしまったかのようにいきいきと輝いていた。彼女はこの旅に来てからも、ずっとニコニコしっぱなしだ。うれしそうに目を輝かせて、少しのものでも見過ごすことがないように心に決めているかのように、その大きな目を更に見開いてあたりをくまなく見ていた。そして、急に目をつぶったかと思うと、どこまでもどこまでも内面深くに降り立って会話をしていた。
「よかった」
 僕はそんな彼女を見て、こころの底からホッとしていた。彼女がこの島に渡った理由は苦しくつらいものだったけれど、この島に来てほんとうはよかったんじゃないだろうか。
 これまでずっとひとりで抱えてきた重い荷物を、やっと降ろすことができたのだろう。彼女は、とても幸せそうに笑えるようになった。その笑顔を見ている僕までを幸せの空気に巻き込んでしまえるほどの強さで。
 昼過ぎにキヨさんの家を出発して、途中あっちこっちでふらふらと休憩をとりながら、古くてちいさな車で走りつづけてきた。夕方、鍾乳洞近辺のキャンプに適した平地を見つけると、そこにテントを張って一夜を過ごすことにした。月が中空にさしかかる頃、彼女は水筒だけを持ちテントのファスナーを下げて外に出ていった。
 ゆっくりと靴を履き、彼女はちらりと僕の方を振り返った。月の光に照らされたその笑顔は、妖しくそしていたずらに輝いている。僕もあわててテントから出て靴を履いた。フタを開けた水筒を、彼女は何も言わずに僕の方に差し出した。受け取ろうと手を出すと、彼女はゆっくりと首を振り「ちがうの」と告げた。そして、今度は飲み口を少し傾けて僕の手に近づけた。
「手を洗えといっているのか」
 やっと彼女の真意がわかった僕は、しゃがみ込んで両手を広げて差し出した。僕の手のひらに冷たい水が流された。水に触れた手がさわやかな夜の風に吹かれて、全身が禊ぎのあとのような気持ち良さに包まれた。僕がきれいに手を洗い終えるのをニコニコしながら眺めていた彼女は、そのボトルを今度は僕に手渡した。
「ねえ、芳明、見て」
 手を洗おうとしている手のひらに水を注いだとき、彼女はちいさな声を発して僕を呼んだ。子供の頃のひそひそ話のような、ふたりだけの内緒話に誘うようなそんな声のかけ方。ときめきにも似た甘酸っぱさが僕の胸をぎゅっと握りしめた。僕は彼女の横に寄り添うようにして、それを見た。
 彼女の手に月が舞い降りて、ほほえみかけてくる。彼女の手のひらの中に、全天を明るく彩り、木々を黒く深い緑に映えさせていた輝きの源が映っていた。
「お月さまのパワーが凝縮してそうなすごい水だね。すごいすごい」
 うれしそうにそう言うと彼女は、しばらく手のひらの月を眺め、その水を一口飲んで顔を洗った。こぼれんばかりの笑顔で手を差し出す彼女にふたたび水を注ぐと、しばらく月を満たしたあと、勢いよく僕にふりかけた。
 月の光の染み込んだ水で、僕の頭はずぶぬれになった。ぽたぽたと滴がしたたり落ちてくる。急な攻撃に驚いた僕は首にかけていたタオルで頭を拭った。笑いながら、ちょっと困った顔をしながら。彼女はそんな僕を、声を上げて笑いながら見ている。その笑い声が、空に響いていった。
 髪留めをはずして黒くたっぷりとしたその髪をおろすと、彼女はふたたび僕に手を差しだした。手のひらに満たされたその水を、ゆっくりとうやうやしく頭上に掲げる。そのまま目をつぶると至福の表情を浮かべたまま、ゆっくり深呼吸をくりかえした。満月の愛をその全身に充分に受け取った彼女は、ぱっと手のひらを返して頭の上から水をかぶった。背中まで届く長い髪が、月のしずくを受けて輝いている。
「ありがとう」
 髪から水をしたたらせて、振り向くと彼女は微笑んだ。僕たちは山の中でふたりっきりで、月の光を浴びていた。僕だけに向けられた蒼く輝く光は、こころの掛けがねをすとんと大地に落としてしまった。僕は気がつくと、彼女の腰に手を伸ばし、抱き寄せていた。腕の中に、愛しいちいさな人がいた。彼女の背中に手を這わせると、少し濡れた髪が僕を壊した。彼女の頬と僕の頬がふれあった。その頬と、彼女の髪と背中をなでている僕の手は、それまでに触れたどんなものも凌ぐ幸福感を伝えてきた。伝わってくるのは、それだけだけじゃなかった。僕が望みつづけて、想いつづけた幸福が急に現れた。この腕の中の世界に鍵をかけて、ふたりだけの宇宙を抱きつづけたいと願った。彼女をそっと抱きしめる、ただそれだけで、もう僕は死んでしまいそうだった。
「好きだ」浮かんでくる言葉は、それしかなかった。けれど、僕はそれを言うことができなかった。ためらいがちに口を開いたそのとき、彼女の声で遮られた。
「さわらないでっ」
 両の手のひらを僕の胸につけると、彼女はそのまま腕をまっすぐに伸ばした。その力はすさまじいほどに強くて、その想いの強さに、僕はそれほどに嫌われているのかと胸が痛んだ。
 僕が手を離すと彼女は崩れ落ちた。突然、ぼろぼろと涙を流しはじめた彼女は、頭をかきむしり、鼻をすすって、大地に頭をこすりつけていた。
「やめて。わたしは、きたないの。きたないの。醜いの。さわらないで。さわらないでっ」
 月の光を受けながら泣き叫ぶ最愛の人。僕は驚いて彼女を見つめて立ち尽くした。
 誰が? 汚い? 僕か? きみか? なにを言ってるんだ? 僕は出逢ったことがない。きみ以上に美しいものに、出逢ったことがない。
 彼女は座り込み、地にひれ伏すように泣きつづけていた。黒髪は土にまみれて、大地に投げ出されていた。君の美しさに見惚れてしまい動けなくなってしまう僕の前で、彼女は「わたしは醜い」と叫んでいた。
 一体、僕はどうしたらいいんだ?
 両手で土をかきむしり、彼女の肩は小刻みにふるえつづけた。そこから土の中に還ってしまいそうなほどに、彼女は額と鼻を地面にくっつけていた。
「きれいだよ、きみはほんとうにきれいだよ」
 激しく首を横に振った彼女は、咳き込みながら、驚くほどの勢いで叫んだ。
「あなたは、知らない。わたしのことをなにも知らない」
 僕は彼女の背中に、そっと手を置いた。
「やめて、いや、さわらないで」
 僕の手を感じたその瞬間、彼女は爆発的にその場所から飛び退いた。後ずさりをして、大きな木に行く手を阻まれると、両手を伸ばして僕を拒んだ。あとからあとからあふれ出てくる涙で顔中が濡れていた。僕も同じように、泣き濡れていた。
「あなたまで、汚れてしまう。わたしに触れると」
「大丈夫だ、僕は触れない、きみに触れない。大丈夫だ、大丈夫だ」
 森の中で、僕は何度も叫びつづけた。すこしずつ彼女と距離を置きながら。
 泣きながら大樹にもたれる、今にも大地に崩れ落ちそうな彼女にむかって、つい数分前には愛の告白をしようとしたその口から、きみには触れないと宣言をさせられていた。

 一体、なにがあったんだ、きみに。


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