031

彼女の風景 搭乗

 那覇発関空行きの二九便に足を踏み入れた途端、わたしの足は恐怖にすくんでしまった。乗車率は五割といったところだった。ファイルをメールで送ることができたので、気持ちは少し落ち着いてはいた。真っ青な空が広がっていることも、意味もなく心強かった。
 わたしのこころは、テロに対する恐怖やおそれや怒りや悲しみや憤慨に包まれていた。わたしはゆっくりとそれらの気持ちと折り合いをつけてゆく。わたしの中にやすらぎがなければ、世界が安らぎに包まれることなんて、ないから。
 テロを起こそうとするものも、それらに乗じて政治権力を掌握しようとするものも、戦争をしてお金を儲けようとするものも、軍需をのどから手が出そうなほどに待ち受けているものも、すべて。
 そういう世界の仕組みを知ることなく、無意識に破壊に手を貸して生きるものも、すべて。
 すべてを許して、わたし自身を許すことができたら、この惑星に生きていられることの奇跡に気がついて涙が流れてきた。
「芳明。あなたは今どうしている? あなたの今をしあわせに生きている?」

 わたしのなかのこだわりを、滞りを、流してきれいにすること。ありのままのわたしに戻って、世界とつながっていること。それしか、わたしにはできない。
 わたしは世界の滅亡を止めるために旅をしてきた。どうすればみんなが幸せに生きていくことができるのかを探して、おかしくなった世界を元に戻す方法を探して歩いてきた。けれど、なにをすることが世界にとっていいことなのかなんて、ほんとうにわからない。きっと、それは、誰にもわからないことだ。
 戦争やテロを止めようとすることさえ、わたしのワガママなんじゃないかとさえ思えてきた。でも、わたしはそれでいいと思う。感じたままを、生きてゆくしかないのだ。それが、どんな選択であったとしても。
 生きていることそのものが奇跡なのだから。
 今わたしがここに存在していられることに感謝をしよう。そして世界を愛すればいい。
 辺野古にたどり着いたわたしが、得たもの失ったもの。それはとても大切なものだった。そしてこれまで歩いてきた道を振り返ってファイルに記してゆくことで、わたしはたくさんの気づきを得て、とても楽になった。

 ねえ、芳明。世界をかえるのに必要なのは、力じゃないんだね。もちろん、争いでもない。人を説得することでもない。
 わたしたちひとりひとりの想いが、この世界を創っているということをつかみ取ることなんだよね、きっと。
 人はそれぞれに苦悩しながらも、前を向いて歩いていく。大切なものを抱えながら。愛する存在とともに。
 わたしが生きてきた道は、わたしだけの道。その道は延々とつづいている。わたしたちには、それを歩いてゆくしかできないんだね。
 こころのある道を、ただただ選びながら。
 わたしはゆっくりゆっくり深い呼吸をして、キヨさんを想い、芳明を想い、父と母を想い、博史を想った。
「間に合わないことなんて、きっとこの世界には存在しないよ。いつだって、今この瞬間がそれをやるベストタイミングだから。わたしはね、まだやれる。芳明と一緒に。だから、もう大丈夫。
 この飛行機に乗り合わせている人が、みんな幸せでありますように」
 わたしは、そっと願っていた。

 そのとき、ガクンと飛行機が揺れて、強烈な光が機内を包んだ。乗客は、驚き悲鳴を上げた。
 わたしは最初の揺れでノートブックの角で頭をぶつけ、愛しいマックを抱えてそのそのまんま意識を失ってしまった。


芳明の風景

 彼女の飛行機は定刻通り無事関西空港に到着した。
 沖縄帰りの人々は、それぞれにお土産の大きな荷物を抱えて、日に焼けた顔で楽しそうにうれしそうに出てくる。この一団の中から彼女が姿を現すその瞬間、僕はどれだけの幸せに包まれるだろうか。これほどまでに僕を一喜一憂させてしまう彼女。彼女はほんとうに天使で悪魔のような女だ。
 僕は到着ロビーと出口をさえぎる大きなガラスにへばりつく勢いで彼女を探しつづけた。けれど、どれだけ待っても彼女は出てこない。それほど大きな荷物はないはずだから、飛行機を降りたらすぐに出てくるはずなのに。荷物を預けていたとしても、回転台にのせられた荷物はもう半分以下になっている。そろそろ姿を見せてもいい頃なのに。
 またしても、不安の虫が僕を苦しめはじめた。まわりつづける荷物がすべて持ち主のもとに引き取られたあとも、彼女は出てこなかった。彼女の携帯に電話をしても、繰り返されるのはテープの無機質な声ばかりだった。
「来ない」
 なぜだ? きみはこの飛行機に乗って帰ってくるといったじゃないか。なんなんだよ「念のため」だなんていう不安にさせるあのメールは。そして、あの壮絶なファイルは・・・。
 なんなんだ、何のために送ってきたんだ。きみはどうしたんだ、今度は一体なにに巻き込まれてしまったんだ。
 再びカウンターに行って、彼女の名前を告げて搭乗したのかどうかを、今度は冷静な口調で調べてもらうことにした。
「少々お待ちください」
 さっきと同じカウンターの女性は、僕がまた帰ってきたことにほんの少し嫌な顔をしていたけれど、すぐに営業スマイルに戻ると端末機で調べはじめた。
「お客様、このお客様は当機には御搭乗されていません」
「なんだって?」
「はい、チェックインはなさったのですが、搭乗口にお越しにならなかったのです」
「なぜ?」
 なんなんだ、一体。どういうことなんだろうか。彼女はまだ沖縄にいるのか?
「事情はわかりかねますが。
 何度もお名前をアナウンスさせていただきましたが、搭乗口においでにならなかったということの・・・・」
 女性の声はフェードアウトしていった。ロビーの喧騒も、僕の耳には届いてこなかった。

 一体、きみはどこへいってしまったんだ?
 その小さな背中に世界の苦悩を背負ってこんな所まであるいてきて。そしてまたひとりでどこかへ行ってしまったのか?
 すべての力を失ってしまった僕はベンチに座り込んでいた。
「きみはなにを探しているんだ? もうこれ以上僕を困らせないでくれ」
 そうだ、最後まで読もう。彼女のあの祈りのテキストを、最後まで・・・。
 柱にコンセントを見つけると、電源コードをさしてノートパソコンをつないだ。暫くすると、僕のパソコンは復活して、彼女のファイルを映し出した。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?