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音楽を始めた日のこと


人生に於いて忘れられない日というのはぽつぽつあるが、私は音楽を始めたその日の事が、そのひとつだ。

音楽を始めるきっかけになったのは私の一言だった。私が5歳の時だ。記憶にはないが、テレビで流れていた音楽教室のCMを見て「これやりたい」と自分から言ったのだそうだ。
丁度入会案内のハガキも届いていたらしく、それならやってみる?と体験レッスンを申し込んだのだった。

体験レッスンの日。
母と牛久駅前の西友へ車で向かう。
今は西友ごと撤退しているが、当時ここの5階に音楽教室が入っていた。
母と並んで座ってレッスンを受け、終了と同時に同じ歳ぐらいの子供たち、お母さんたちの流れに乗ってレッスン室の外に出る。
流れに押され先に出て来てしまった私はドアの前で母を待つ。出てくる人の波から母の姿を探す。

人の波が去っても母は出てこなかった。
おかしいな、と思っているうちにどの親子もわらわらと帰って行き、ポツンと私ひとりになった。
どうしちゃったのかな、反対の方に行っちゃったのかな、先に帰っちゃったのかな、私を置いて買い物に行っちゃったのかなと、5歳なりに"なんで"と"どうしよう"をハッピーターンみたいな形のベンチの前でぐるぐるぐるぐる考えた。それはもう1分が1時間に思える程長かった。そして不安に負けた私はとうとう堪えきれずに泣きながら走り出した。
西友の階段を1階まで駆け下りる。
駐車場を抜けて、いつも母と車で通る道を家に向かってわぁわぁ泣きながら全速力で走る走る。途中向かいを歩いていたカップルが私に気付き、どうしたの!と声を掛けてくれたような気がするが、立ち止まる余裕も聞き取る余裕もなく、涙と走る振動でぐらぐら揺れる視界の中で、ひたすらママ、ママと連呼しながら走った記憶だけがぼんやりとある。大人が歩いても20分近くかかる距離を、どんなエネルギーで走り抜いたのか全く覚えていないけれど、とにもかくにもなんとか家にたどり着いたのだった。庭に面した"畳の部屋"の電気が点いている。泣きながら窓を叩く。

その日姉は、夕方からのそろばん教室に向かうまで、お留守番を頼まれていた。
1階の和室で宿題などしていた姉は、庭からわぁわぁ泣く私の声が聞こえて、何事かと慌てて窓を開けてくれた。泣きまくり&息も上がりまくり&絶賛パニック真っ最中の私の「ママがいなくなった」の訴えをなんとか聞き取った姉は、姉なりに考えに考えて西友に電話してみようと当時のあの厚さのタウンページを開き、西友の番号を一生懸命探してくれた。
しかし姉も当時小学5年生。探し方が分からず断念し、私に家で待つよう言い聞かせてチャリを飛ばして西友まで走ってくれたのだ。

その頃母は西友にいた。館内で私が行きそうな場所を隈なく探し、何度も何度も迷子の呼び出しをしてもらうも一向に私は見つからず、本当にもうこれは、いよいよだめかも知れないと思い始めていた頃、館内を探し続けていた母とチャリで西友に向かった姉がバッタリ階段で出くわしたそうだ。
「なんか、はる、帰ってきたよ」
この一言がなんとも姉らしくて今でこそ笑えるのだけど、これがのちにタナカ家で語り継がれる、"奇跡の迷子事件"の幕引きであった。


母は体験レッスンのあと、早速入会しようと、レッスン室のさらに奥にある講師室で先生に手続きの確認をしていたのだった。手短に話を済ませ、4,5分でレッスン室を出ると私が忽然と姿を消していたのだ。
かくいう私は、恐らくひとりぼっちになってから2,3分で耐えきれずにその場を後にしたのであって、その1分の差が全ての始まりだったのだ。

事件の名前に奇跡がついているのは、
もしあの日に入会を決めていなければ
もし私があと1分だけ待てていたら
もし姉がタッチの差でそろばん教室に向かってしまっていたら
もし6階建ての西友のビルの中で姉と母が出会えなかったら
色んな奇跡によって始まり終結したタナカ家始まって以来の迷子事件ということに由来する。

大人になった今も時々思い出すけれど、人生は知らない所で日々本当に色んな奇跡によって成り立っているに違いないと毎度思うのだ。
あの日始めた音楽が、その後色んな奇跡を積み重ねて軌道を描きながら今日に繋がっているのかと、その道のりを感慨深く眺めたりする。
あの日から今日までの私の音楽の日々は、奇跡の賜物だ。

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その頃の私。
お茶目が過ぎる。

2020.11.14

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