そこから溢れて、出てゆくもの
ずっしりと豊かな感覚がぼくの心のてっぺんに宿り、今日の一日が降り注ぐ。(ヴァージニア・ウルフ『波』- 森山恵訳)
頭の中や、心に浮かべて何か思っていても書き出せないので、とにかく何か書き出してみよう。こうやってウェブ上で書いて、公開してすぐに誰かに読んでもらおうというのは、何か伝えたいことがあるからだろうか。私にはそのようなものがないような気がするし、あるような気もする。そもそも何か伝えたいから書いているのだろうか? という疑問もある。伝えたいものがあらかじめあって(わかっていて)、それを渡すだけなら、少なくとも私は、わざわざ書くなんてことはしないような気がする。
昔、あるエッセイを書こうとしていて、でも、なかなか書き進められない。自分はそんなことの連続でずっときているのだが、それでもあれやこれやと手をつけていたら、スッと進むものがある。でもそのときは書き進められなくて、その話をある人にしたところ、「それは、話せるのだから書かなくてもいいということじゃないか」と言われた。
そんなふうに考えることもできるのか! と妙に感心して、それ以降、忘れられないことばになり、いまでもよく思い出す。
個人的な話をすると昨年からいろいろあり、いろいろというのは、それまでの動きをいったん止めようと(良くも、悪くも、ですけど)思う出来事があり、でもつくりかけていた『アフリカ』vol.33と井川拓『モグとユウヒの冒険』は出してしまおうというので、つくっていたらもう2022年も半分が過ぎていた。
そうしたらすぐに暑くなり、あんなふうに暑いと何もする気がしないというか、そんなふうになると言い訳になるか、でもまあ気が乗らないのは仕方がない、しばらくはノンビリしていよう、というふうになりグダグダしていた。
私はもう一切、外向けには何も書かないし何も発表しない、というふうにしてもいいのかもしれない。──と考えてみる。そりゃ、いいなあ、というのが正直なところだ。
しかしそれでも、そこから溢れて、出てゆくものが、あることも確かなのだ。それを見て、見ぬふりもできない。
そんなふうなことを考えるのは、今回が初めてではないし、いつものことなのだ。しかしあらためてそうやって考えてみると、自分にとって『アフリカ』はワークショップなのだ、という思いが強まってくる。
だから文章教室という名のワークショップをやったのは、自分にとっては自然なことだったような気がする。そんなことしてないで自分の作品を書けばいいのに、という声はありがたく受け取るが、しかし(外からは感じにくいかもしれないが)ワークショップあってこその営みでもあるのだ。
しかし「教室」というと、先生がいて何か教えてもらえると思われるところもあるようだ。とくに何も教えない、ただのワークショップなので…というと「ワークショップとは何か」という説明をしなければいけないが、何度その話をしても通じない人には通じないし、通じる人には必死で説明しなくても伝わるということも大体わかった。
なので今後は──というよりも、私の抱いているイメージがどうかという話なのだが、雑誌『アフリカ』があって、その横に文章教室があるというのではなくて、中心にワークショップがあって、その中に『アフリカ』もあるし、あれも、これもある、というふうに考えてゆきたい。『アフリカ』は、その時々の痕跡のようなものなのだし…
というわけで、書いたり読んだりするワークショップも再開しようと思うのですが、どうやってゆこうというのは白紙で、一緒にやりたいという人たちと話し合うことから始めようと思っています。
(つづく)
さて、どうしよう?(アイデアはいろいろありますが、ぼちぼりやります。モタモタしているので、何かあれば、いつでも声かけてください)
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