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ちいさな世界で

『アフリカ』の次号は昨年末につくる予定だったとか、今年の春には出す予定があったとか、それは全てその通りなのだけど、ぼくの悪い癖で「モタモタ」しすぎてしまい、もう5月だ。もう初夏の陽気ですね。
それでも5月中にはつくってしまおう、と話しながら進めている。進めているといっても、この1ヶ月だけ振り返ってもぼく自身が家で『アフリカ』関係の仕事に向かえている時間は殆どない。というのが現実で、子育てを理由に活動停止してしまう人たちの気持ちが、いまになって、痛いほどよくわかる。
それでも続けているのは自分がアホだからか……。
いまは、正直にそう告白しておこう。

先日、「参加しても謝礼も何も出ない、そのような小さなグループ活動の寿命は平均3年という調査結果がある」と、ある方から教わった。
どんな調査の仕方をして「3年」になったのかは聞かなかったが、たしかに、気分的には「3年」かもしれない。『アフリカ』にも最初、3年たった頃に大きく変化している。
それでも終わらずに続くというのはそこに何かがある、生きて動いているものがあるからなんだろう。
逆に、それが感じられなくなるときは、終えどきだ。

『アフリカ』のような活動は、「つくる」こと、「みる」こと「きく」こと、「観察する」こと「発見する」ことなんかが日々、たんたんと続くような営みの一部としてあればよい。
とすると、これは「出版」ではないのかもしれない。いや、「出版」とはそもそもどんな営みとして生まれたものなのかと訊かれたら、詳しくは知らないが……。

世界に発信するということへの関心が低くて、狭い、ちいさな世界で充足している。
それができている状態をぼくはとても健康的に感じていて、それこそが「自立」であり、そうでない状態が深まってくると精神的にものすごく病んでくる。
こんな話をしても、誰もが「は?」「何わけのわからないことを言ってんの?」と思う時代に、なっているだろうか。果たして、そうだろうか。

さて、では、そうやってつくったものを、しかも複数人の書き手(つくり手)を集めて「雑誌」や「本」のようなかたちに仕立てて、しかも売ったり配布したりするのはなぜだろう。
その行為と「世界へ発信する」ことの間には、どんな溝があるだろうか。あるいはないだろうか。「手渡す」ことや「届ける」ことと、「世界へ発信する」ことは、果たしてイコールだろうか。

※『アフリカ』の営みは、終わるまで続きます。

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