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複数の読者

今朝、起きてしばらくしてから、ウェブ空間に出てきて偶然、アマヤドリさんの書いているものを受け取って読んでいたら、自分の名前が出てきたので驚きつつ嬉しく読んだ。「アフリカ」と書いてあっても、その99%以上はあのアフリカだろうからまさかそのアフリカだとは思わないのでした(ややこしい話ですみません)。

なぜそんな話になっているのかというと、今年の7月から「『アフリカ』を続けて」と題した連載を書かせてもらっているウェブマガジン「水牛のように」があるからだ。アマヤドリさんはフランス在住だけれど、ウェブマガジンならすぐに届けることができる(いま、日本の、横浜で暮らして、書いています)。

でも今日ぼくがここに書きたくなったのは「水牛」のことではなくて(「水牛」のことはまた近々じっくり書きます)、アマヤドリさんが「日記のようなもの」を書いて、ウェブ上に公開することがどういうことなんだろう? ということを書いていることを受けて書きたくなったことだ。

最近、「道草の家の文章教室」でも、個人的な体験とか、意見とか、そういうことを書いて、人に読ませるようなことだろうか? という話が出て面白いなあと思っていたところだ。

文章教室では、書かれたものを読ませてもらって、みんなでああだこうだと話して、聞いてゆくと、書いた人が書いたもの以上のことをたくさん喋って、それがすごく面白いということが頻繁にある。

どういうこと? と考えてみると、どうやら(それを書こうとする人が)そんな些細なことは書くようなことじゃないと考えてしまうということらしい。でも読む(聞く)人からすれば、その些細なこと〜細部がとても気になるし、それが見えたり、聞こえたり、感じられたりするか・しないかはとても重要なことになる。

すこし話が逸れたようだけれど、ただ書くだけじゃなくて、書いたものを誰かに読んでもらうことが、その話を(よくも・わるくも、だろうけど)変えてしまうのだ。

ぼくは自分ひとりだけで書くことも、それはそれで、とても大切にしている(朝のページというのを毎日、何年も書き続けていて、それは自分以外の読者を想定していないし、自分ですらあまり読んでない)。

しかし最近、つよく感じていることだけれど、自分の中にも複数の読者がいるのだ。

そうなると、読者も、そんなに確固たる存在ではなくなってくる。書き手があやふやなように、だ(「読者」と「書き手」は入れ替えても成立するので、遠慮なく入れ替えてみてください)。

さて、アマヤドリさんは、こんなことを書いている。

以前、駅とか繁華街など人が行き交うようなところ、人が生活の中で幾度か通りすぎるようなところで24時間パフォーマンスをしてみたいと考えたことがある。朝会社に行く時に踊っているわたしたちを見ることができて、会社から帰ってくるときにもまだ踊っている。このひとたちは自分が一日生活をしている時間にもここでずっと何かをしていたんだ、とその人は思う(意識的に、または無意識の中でかもしれない)。自分が過ごす一日の中で他人が他の一日を過ごすことなんて当たり前のことなんだけど、世界には70億とおりの「その一日」があるのだけれど、そのことをただ漠然と感じるようなことにならないかな、というようなこと。

じつはぼくも似たようなことを考えることがある。たとえば、だ。ぼくが何年も"『アフリカ』をやる"ことを忘れていたとしても、数年後に思い出して、『アフリカ』を再びつくった時に偶然、久しぶりに『アフリカ』と再会した人は『アフリカ』がずーっと途切れずに継続していたと思うだろう。

不定期刊行だ(どれくらいのペースでやると明言していない)からその現象が際立つのだけれど、だったら、何年止まっていたら終わったと思われるんだろう。

話がどこへ向かうのか、わからなくなってしまった。つづきは、また書きます。

(つづく)

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