あなたに言われなくても

悩んでいる人や傷ついている人に対してどのような言葉をかけるべきか。子供の時はそんなことを考えていた。その考え方の正しさを信じていた。僕は大人になってから大きく傷つくことがあった。それ以降は悩みを抱える人へ言葉をかけないといけない時は慎重に言葉を選ぶように心がけているが、子供の時のように、その行動が、その人の為になるとは信じてはいない。これは自分がそうやって言葉をかけられる立場になった時、他者から自分に向けられる言葉が重荷になったからだ。当時の僕は有体に言えばストレスを抱えていた。周りにもそれは目に見えて伝わり、何人かの人は声をかけてくれた。それは善意からの言葉だったと今では考えられる。それでも、当時の僕には辛い言葉だった。何がそう感じさせたのか?それは他者から語られる言葉はどれもこれも自問自答で答えを得ていたのだ。「〜すると良い。」、「〜に悩んでない?」、「疲れた顔してるよ。」、そんなことはあなたに言われなくてもわかっている。そんなことは当に検討して行動してダメだったんだ。そう思っていた時に、「あなたは今ストレスが原因で正常な判断が出来ていない。でも、それは仕方がないことなんだ。」そんなことを言われて、誰があなたを憎まずにいられるのか?僕のこの耐え難い苦しみを、僕は正しく受け取れてないというのか?それでもう他者の言葉を受け入れられなくなった。客観的な視点から私はあなたの状況をあなた以上に把握しているという態度の人から出る言葉は、全て自問自答で事足りることばかりだった。それはそうだ、その人はずっと僕のことを考えていられるわけではない、それに比べ僕は忘れようとしても、付き纏うように、考えを巡らすのだから、それにかけている時間が違う。それに、その人は僕が何にストレスを感じているか、推察か、僕の言葉からしか判断できない。僕はそれを全て体験していて、うまく言葉に出来ない苦しみも実感として残っている。拾い上げられる情報もその確度も僕が優っている。その相手に自分の方があなたのことがわかっていると言われれば馬鹿にするなと言いたくなる。その後、僕がその人と同じ類の人と感じた人たちは、全員真っ当なことを僕に言った。その真っ当なことを行動に移さなければ、人格的な問題だと視点を切り替え、それで終わりだった。自分の自慢話になる善人エピソードを一つ作る為のちょうど良いカモが僕で、自分の思い描く話にならなかったから、関わりをやめて、世間話の材料にする為に僕を自分の周りにいる変な人という扱いに切り替えたとそう思えた。当時の僕は疑心暗鬼に陥っていたのは自覚している。だから、人のことを必要以上に悪く捉えていた部分はある。それでも、他人が本人以上にその人のことを理解出来て、自分がその人のプラスになれるという考えはこれ以降持てなくなった。これは辛い経験から謙虚さを得たという話ではない。以前の僕であればそうして善人エピソードを一つ作れて喜んだと思うが、今はただ自分が嫌になる。


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