無関係だから出来るという考え方

以前僕の住むアパートの隣の建物で小火があった。僕の部屋は隣の建物についている煙突の煙の吐き出し口の真横にあたり、出火元がその煙突の中であったから瞬く間に大量の煙が部屋に充満した。恐らくこの火災の最初の発見者だったと思う。同居人と避難を開始して3分も経たないうちにサイレンが聞こえてきた。隣人の誰かが通報したのだ。小火は素早い通報と消防士の活躍で傍目にも最小限の被害で済んだと思う。通報してくれた人、消防士や警察官にも感謝したい。この時、小火が極々小規模な騒動で済んだのはやはり早期の通報が一つの要因にあると思う。何かあった時、初期対応をどれだけ迅速に行えるか、その重要性を改めて認識させられた。それと同時にこれが火事でなければ、これほど素早い通報がされたかという疑問を今では抱えている。例えば自分の家の前で誰かが刺されたとする、自分がマンションの中にいて、身の安全が確保されていれば、その時はすぐに通報するだろう。では、マンションに住んでいて、隣で悲鳴や慌ただしい音が聞こえてきたらどうだろうか?これはすぐに通報するかわからない。初めての出来事であれば不審に思うだろうが、定期的に聞こえるのであれば「またか。」と放置するかもしれない。この2つの例にはいくつか違いがある、1つは現場を直視で確認したかどうか。2つ目は事件後、相手と継続的な関係が考えられるかどうか。隣人問題の場合これが懸念材料になって通報が迅速にされない可能性は考えられる。3つ目は現場に立ち会った場合の安全性の問題がある。先に例に挙げた通り魔事件では通報した人物は一定上の安全が確保出来ている。これが刺された人のすぐ近くにいて自分がターゲットになる可能性があれば、通報する余裕はない。火災事故の場合、炎や煙での直視の確認が可能で、それ故に通報をするべき確たる証拠があるので、事故後トラブルになる理由がなく、自分のいる場所が火元から離れていれば安全が確保されており、また通報して鎮火することが自分の安全に繋がるため、迷うことなく通報が出来る。そう考えると、火災は初期対応が取りやすい事例と言えるかもしれない。例に挙げた隣人問題では、何かあった場合、初期対応が遅れると、後で問題になると思うが、各家庭のプライバシーに踏み込みにくい現代では、どうしても通報するか一考する必要が出てくる。また、自分の近くで事件が起きた場合は、自分の身の安全を誰もがはかる。これを部外者が非難することは出来ない。通報できなくても自分が同じ立場になればやはり迷うだろう。そうすると、通報すべき案件に対して、その場での安全性や、その後の継続的関係への悪影響が懸念される比較的身近な第三者は行動が取りづらいという心理的背景を推察することが出来る。昨今は空間的に身近であっても疎遠な関係が当たり前に成立している。何かあった時にそれでは助けが得られないから隣人との関係の構築を促す論説は聞いたことがある。逆に今回の考察からは遠い存在だからこそ出来ることがあるという一つの考えを導き出せたと思っている。今後は今以上に他者との関係に制限がかかる社会になる。それならば、他人だからこそ行動を起こせるという考えを相互援助の考えの一つに加えても良いのではないか。

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