流行の服装とセンスの責任転嫁
日本人が1番活発に行なっている自己表現とその手段とは何か?僕は服装だと考えている。自分の着ている服に自分の感性とか趣味嗜好とか時には財力とかそんなものを代弁させる。言葉にする、文章にする、絵を描く、音楽にする、モノを作る、この他にも自己表現の方法は色々とあるはずだが、どれも手軽には出来ない。服装はその辺が楽で服を着て人目に触れればそれでアピールが完了する。そんなつもりで服を着ているのではない。そう思う方もいるはずだ。僕も普段自分を表現するために服を着ているとは思っていない。ただこれは嫌な例だが、痴漢とかセクハラをした人が、被害者が露出の多い服装をしていたのがいけないのだと責任転嫁することがある。これは服装にその人物の意図が含まれているという理論が成り立つから出てくる言い訳だ。だから服を着ている本人に明確な表現の意図がなくとも他者が勝手に意図を作り出してしまうほど、自己表現の方法として浸透してしまっているのである。ここで困るのは好むとも好まざるとも他者に判断されるからにはよく思われるか、無関心でいて欲しいということだ。自己表現をするからにはダサいとかは思われたくない。そこで助けになるのが流行だ。流行とは近い過去において評価された物事が爆発的に認知されたり利用されるようになることだとする。だから将来何が流行するかは本来わからない。ところがニュースのエンタメコーナーとかを見ているとこの夏のトレンドは〇〇ですとか未来の流行を断言している。そしてそれが結構当たる。これはなぜか。これは売り手側が印象操作を行い、市場をコントロールしているからである。そしてたくさんの人はこれを快く受け取っている。なぜか。センスを問われる時、あるいは自己表現をする時、人はよく思われたいと思う以上に、悪く思われたくないのだ。これは金銭感覚の話にも通ずるのだが同じ金額の収入と損失があった時、それに伴う幸福感と喪失感では喪失感が勝るというのだ。センスに関しても他者にダサいと思われる方が堪えるのかもしれない。このリスクを肩代わりしてくれる存在がある。それが流行だ。流行の服を着てセンスが良いと言われればそれで良いし、否定されても流行だからといえば言い逃れ出来る。なんなら流行を盾に相手を黙らせることすら出来るかもしれない。リスクは犯したくない。音楽で考えると流行りの歌を歌えばそれだけで良い〜普通の範囲で判断される。ところが自作の歌を歌った場合それがどれほど良くてもほとんどマイナスの評価になったりしないだろうか。自作という点で既にダサい。ところが、これが同じ歌でもテレビで取り上げられたりすれば途端にカッコいいものと評価がひっくり返る。メディア・あるいはブランドの後ろ盾がどれほど効果があるかこれが物語っている。そしてオリジナリティを出すことがハイリスクハイリターンであることもなんとなくわかる。服の話に戻るが、僕は肌が弱い。だからデザインが好きでも肌触りの問題で着られない服に出会うことがある。自然、そういう制限があるから流行に乗りたくても乗れない不便さもあれば、それを理由に流行のファッションをしなくてもああだこうだ言われない自由も手にしている。この辺が怖いところだ。世間の人たちももっといろんな服装を本当はしたいのかもしれない。でも他の人と大きく違った服装をすればそれだけの理由で何か言われる可能性が高くなる。予想されるのは否定される言葉だ。そこを流行は助けてくれる。毎年違う流行を作り上げることで色々な服装を着る口実を作ってくれる。目立ちたくないという意識が強い日本人にはこれは願ってもいないことなのだ。口実の魔力は絶大だ。ハロウィンのコスプレが浸透したのもあの期間だけは普段とは違う服装をしても批判されない。その口実があるからこそ本来の文化的意味合いから目を逸らし商業的なイベントとして成立することが出来ているのだ。