拝んでいたら壁から推しが出てきたので共に暮らします!第三話

第三話

選手たちがはけ、閉会式に向けて整備が行われているグラウンドを見ながら、高瀬くんが強い声で言う。

「ねえ、松崎さん」
「ん?」
「俺も必ずここに来て、あの土を踏む。チームメイトと一緒に。そして、優勝する」

 強い風が吹いた。高瀬くんの前髪が揺れる。視線は前を向いていてとても力強い。
 先ほどまで年下の男の子だったのに、その姿は自分よりずっと大人に見えた。現実でも、高校球児が年下に思えない現象と同じだろう。

 凛と立つその姿と強い視線に、夢乃は自分の使命をさらに実感した。

(この人の行く末を見届けたい)
 まだ弱冠十七歳の、夢に向かう強い姿勢は、太陽の光より眩しかった。

 ◇
 センバツから帰ってきてから、高瀬くんはより一層練習に励みを出した。早朝に10キロのランニングの後、夢乃とキャッチボールすることになったのだが。

「……松崎さん、体育の評価いくつ?」
「……二」
「マジで!?」
「ちなみに十段階です」
「嘘だろ……」

 高瀬くんが投げる、ゆるーい球すら取ることもできない。ボールがコロコロと後ろに転がっていく。その度に夢乃が走って取りに行く。

 (せっかくこのために グラブもう一つ買ったのに!)

 高瀬くんに呆れられたかな、と落ち込みながら俯いていると、揶揄を交えた声色が頭上から振ってきた。

「へったくそー」

 グラブでぽん、と頭を叩かれる。その顔は笑っていた。

 (こういうところを好きになったんだよなあ)

 もちろん推しとして、だが。

 でも、悔しいものは悔しい。好きでできないわけじゃないのだ。

「くっそー、絶対取ってやる」
「お、やる気じゃん」

 結局その日は、ムキになった夢乃のキャッチボール練習になってしまったのだった。

  次の日は仕事が定時で終わったので、高瀬くんをバッティングセンターに連れていった。
 一分一秒でも彼に練習をさせてあげたくて、崩れたままのメイクで向かう。

 (別に、好きな人に見せるわけでもないし!)
 内心でそう言い訳しながら、高瀬くんと駅で合流した。

「バッティングセンターって初めて来た。なんか、最先端だね」

 快音を鳴らす高瀬くんの隣で、私はかするどころか、ボールが来る全く別のタイミングでバットを振っていた。

「なんなのっ 悔しい……!」
「松崎さんは見るだけにしとく?」
「やるに決まってるでしょ!」

 元々ブラック企業で働いていただけあって、夢乃は相当な負けず嫌いでもあった。

「もっと腕を閉じて、肘はこの角度、膝は曲げて」

 高瀬くんが手取り足とり教えてくれる。
 推しと密着してドキドキしないわけじゃないけれど、彼は恋愛対象ではなく護るべき存在だ。
 一緒にいるうちに出なくなった鼻血のことも忘れてボールとバットに集中する。

「ふん!」
 ブン!
「ふうん!」
 ブーン!
「ふーーん!」
「松崎さん、バットごと飛んでくってそれ!」

 高瀬くんが焦って声をかける。そんな前途多難な夢乃のバッティングに、奇跡が起きた。

 (腕は閉じて、ボールをよく見て……)

 カキン!
「え!?」
 一度だけバットに当たる。
「高瀬くん、今の見た!?」
「おー、見てた見てた。すげーじゃん」
「当たった! 当たったよー!」

 自分のゲームを終えてゲージの外にいた高瀬くんにハイタッチしにいく。

「松崎さんてそんな風に笑うんだ」
「え、」
「俺のことで笑うことはあっても、自分自身のことで楽しそうに笑うところ初めて見た」

 高瀬くんが目を瞬かせる。よほど衝撃だったらしい。

「そう、そうかな……そうかも」
「白熱したところは見たとこあるけどな。センバツとか、キャッチボールとか」

 球を取りこぼし続ける夢乃の姿を思い出したのか、高瀬くんが口許を覆って笑い出す。

「もう!」

 ハイタッチの距離のまま肩を押すと、その衝撃で高瀬くんの手が口から離れた。

 (あれ、高瀬くん、顔が赤い……?)

「……さっきから近いんだって」
「あ、ごめん」

 結局その日は高瀬くんを付き合わせてしまった。

「ごめんね……全然練習にならなくて」
「いや、いい場所教えてくれてサンキューな。松崎さんに教えてたら息抜きにもなったし、あと」
「あと?」
「改めて、俺って最強だなと思った」
「体育二の人間と比べない方がいいよ……」

 堪えきれずお腹から声を出して笑う高瀬くん。それにつられて夢乃も笑った。

「野球って楽しいね」
「だろ?! わかってもらえて、すげえ嬉しい」

すっげー楽しくて、好きなんだよ。高瀬くんが満面の笑みで言った。

ある日残業して帰ったら高瀬くんが家にいない。
 (とっくに自主練は終わってる頃なのに……)

 部屋を見渡すと、開きっぱなしの『闘魂』。巻数を見て夢乃の顔は青ざめる。

 (この巻は青葉高校が、地区大会決勝戦で負けた回……!)

 そう、高瀬くんは二年生の夏は甲子園に出ていない。延長十二回に渡る激戦の末、押し出しサヨナラ負けだった。
 (探しにいかないと!)
 外は雨が降ってきだしていた。真っ先に公園へと向かう。夢乃の想像通り、彼はそこにいた。

 雨が降っているのにも気がつかない勢いで、バットを振っている。その姿には、声をかけるのもはばかられるほどの焦りがほとばしっていた。

 しかも、出会った頃に夜中に抜け出して練習していたときとは違う。やみくもだし、フォームも乱れていた。

 意を決して止めようと近づいた夢乃はハッとする。右手にチラリと赤が見えたからだ。駆け寄って手を開けば、マメが潰れて血だらけになっている。

「なにしてんの高瀬くん! 血だらけじゃない!」
慌てて止める夢乃。
「不安なんだ……」
 と高瀬くん。
 あの前向きで太陽みたいな彼が。
 原作では見たことのないくらいの焦燥ぶりだった。

「あと少しのところで、届かなかった。ピッチャーの調子は悪くなかったんだ。それでもあんな結果になっちまった」

「あの試合を思い出すと、どれだけ努力しても足りない気がする。終われば即引退だ。なのに俺は知らない土地でバット振ることしかできねえ。こんなんで最後の夏、本当に優勝できんのか……とか考えちまって」

 情けねえだろ、と自嘲的に笑む彼。
 ううん、と首を横に振る。夢乃の目には自然と涙が浮かんでいた。

 (どうして気づかなかったんだろう)

 どれだけ精神的に大人びて見えても、彼は高校三年生だ。野球漬けの中、いきなり異次元に飛ばされて、大好きな野球もろくにできず、チームメイトもおらず、元に戻れるか分からない日々。
 センバツでの甲子園に立つ高校球児の姿に、原作の『闘魂』、これらを見て、不安で押し潰されないほうがおかしい。

 持ち前の明るさと笑顔で、彼の苦しみに気づくことができなかった自分が情けない。

(高瀬くんのそばにいたのに)

 何が推しだ。護るべき存在だ。同じ次元にいて、隣にいても、夢乃は高瀬くんのことをなにもわかっていなかった。


「情けなくなんかない。気づかなくてごめんね。でも、血が出るほどの無茶はやめて」

 雨が二人を濡らす。

「この手はバットだけじゃないでしょ。ショートとしてのグラブさばきにも、副キャプテンとして皆の背中を押すときにも使う大事な手なんだよ」
「松崎さん……」
「だから、大切にして。苦しいときは話して。私は高瀬くんの味方だから」

 傷口に当たらないように、手に触れる。こんなにも雨に打たれているというのに、手首はびっくりするほど熱がこもっていた。何千、何万回バットを振っていたのだろう。夢乃はその手をそっと撫でて、胸元で抱きしめた。

「松崎さん、服が汚れる」
「いいの」
 白いレースのカットソーに、高瀬くんの血が滲んでいく。でもそんなことはどうでもよかった。

 このままでは風邪を引いてしまう。分かっているのに、すぐにはその手を離すことができなかった。二つ分の傘の横で、夢乃と高瀬くんは数分の間、触れ合っていた。

 帰って応急処置をしている間、高瀬くんは何も喋らなかった。そんなことは今まで初めてだったけれど、夢乃は特に気にならなかった。

「先にお風呂入って。ご飯作ってくれてありがとう」
「……ん」
 高瀬くんは頷きだけ返して、シャワーへと向かっていく。

 寝る準備を終えて、ソファに寝転ぶ。高瀬くんはまだ無言だった。
「電気消すね」
 リモコンを片手に夢乃が言うと、高瀬くんは帰ってきてから初めて、いや、公園から初めて口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「手、握ってて。怪我してない方」

 高瀬くんが左手を差し出す。夢乃は目を見開いて彼を見た。握るっていったって、ソファとベッドでは距離がある。それは自然と一緒に寝るということで。

 でも、高瀬くんの目が、声が、全力で不安を訴えていたから、拒否することなんてできなかった。
 夢乃はゆっくり高瀬くんの元に近づく。シングルベッドの狭い布団の中に腰掛けた。そして、おそるおそる潜り込む。
 高瀬くんは一度夢乃を見たあと、顔だけ寝返りを打つ。差し出された手が宙を舞っていた。

 包み込むようにその手を握る。高瀬くんの手はマメだらけで硬かった。それがとても愛おしくて、夢乃は両手で自分より一回り大きい手を覆った。何よりも大切な宝物を壊さないように。

 (ねえ、高瀬くん)
 一向に寝息を立てない彼に心の中で声をかける。心拍数は死にそうなくらい早かったけれど、やましい気持ちは起きなかった。

 (私、高瀬くんの夢を叶えたいって思ってるよ。そのためならなんだってするよ。本当だよ。でもね)

 こうやってこの先、彼が弱ることがあれば、今日のように手を握って励ましたいのに、その頃にはもう、夢乃は彼のそばにいない。
 なんて苦しいのだろう。そばにいたい。離れることがちぎれるほど辛い。

 (好きだ、高瀬くんが)

神様。推し。護るべき存在。好きになっちゃいけない人。
 けれど、この気持ちにもう抑えは効かなかった。

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