見出し画像

現実と虚構の中で生きる

蜷川実花展-現実と虚構の間に-に行ってきました。


蜷川実花さんのインスタを拝見したことがあるが、写真をじっくり観察する機会はなかった。


普段、フリーカメラマンさんのインスタグラムの写真をスクロールするときは「これは綺麗な写真かどうか」ということに縛られていた。構図やレタッチの色味、光の角度などを想像して綺麗に可愛く写ることを意識していた。時として、自分の写真にノイズが含まれていると神経が逆撫でされる気分だった。


しかし、蜷川実花さんの作品は「カオス」そのもの。よりの金魚の写真、ありえない極彩色の花びら、雨のように降り注ぐブレブレの光。写真の知識を仕入れているからこそ、彼女の写真の斬新さや色味の使い方には全身に衝撃が走った。電子書籍にこだわる自分が思わず写真集を二冊買ってしまうほどであった。


そして、蜷川実花さんの最も好きな部分が「女性像」である。モデルの芸能人の方が持つ潜在的な女性的魅力、どこかエキゾティックで性的でかつ気高く品がある。一色単にかわいいや美しいと表すことを許さない力強さや叫びを感じた。


最近ずっと疑問に感じていた「わざわざ写真に残す意味」の回答を突きつけられた瞬間だった。


写真は現実より綺麗に映し出せることはないのに、写真にする意味を考え続ける日々を過ごす中で、蜷川実花さんの作品はまさに青い鳥。自分の心にある疑問や嘆き、悲しみや喜び、全ての感情と生き方を世間に訴えかけるのが写真である、そのように再認識した。自己満足で結構、好きも嫌いもありったけ一瞬にぶつけてみたい。

写真とは2.5次元的創作物と捉えている。

現実のように五感全てを共有することができないが、写真を見ることでストーリーを読み取り想像することができる。3次元でもない、かといって2次元よりも現実的なものが写真である。中途半端な存在だからこそ、現実を跳躍させることができると信じている。


しかし、写真も表現活動の末端に過ぎないし、表現は自由である。手法やストーリー、目的さえも定まっていないからこそ誰にでも届けることができる。誰の心に刺さり、誰の心に届けられるのか分からないが、運命的な出会いをもたらしてくれる可能性もある。


この文章も誰かの目に留まることがあるのかもしれない。もし、この文章を読んでくれる人がいたら私がどんな人間かを想像しているのかもしれない。現実に存在しながら人物像を都合がいいように想像してしまう点では、誰かの中では2.5次元的存在になっているのかも。ホログラム的人間に共通点を見出して共感してくれているのかも。


自分と同じような人間がいたら、想像の垣根を超えて実際に会ってみたいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?