オランダに行けず、結婚も延期になったけれど再スタートの乾杯を前向きに待ちます!という決意表明

「できたら今年は、隔月で海外旅行に行く」。それが、2020年の新年に掲げていた抱負の一つだった。

「できたら」とは弱気だが、繁忙期と閑散期を短いスパンで繰り返す仕事をしているため、本当に隔月で行ける自信は正直なかった。お金の問題だってある。社会人5年目の私に、貯金はあんまりない。でも、なんとかやりくりしたらどうにかなるはず!と、根拠のない自信だけは持ち合わせていた。

急に海外旅行を詰め込もうと思ったのは、8月に結婚を控え、ふと自身の生活を見つめ直したからだった。行きたい場所ややりたいことがたくさんあるのに、仕事や日常の雑事を言い訳に後回しにばかりする日々。結婚したら今より何かとバタバタしそうだし、もし赤ちゃんを授かったら、ますます自由に動き回れなくなる。やりたいことはできるうちにやっておかなくちゃと、あえて実行難易度の高い海外旅行から始めることにした。

初詣で小吉のおみくじを引いた後、年明け早々パソコンにかじりついて、できる限りお得なプランを探した。記念すべき第一回目の行き先は、オランダと決めていた。一年のうちニヶ月の間だけ開園するという、キューケンホフ公園のチューリップ畑に、ずっと行ってみたいと思っていたのだ。

ヨーロッパだから決して安くはないけれど、比較的お得な初夢プランを見つけた私は、ドキドキしながら旅行の申し込みをした。旅立ちは5月4日みどりの日。まだ4カ月ある。英語を勉強して、オランダに詳しくなって、旅を目一杯楽しもうと意気込んでいた。結局英語の勉強は進まなかったけれど、オランダへの愛は日に日に強まって、風車がたくさん並ぶ世界遺産・キンデルダイクや、ミッフィーの作者の生まれ故郷で、美しい運河の広がる町・ユトレヒトなんかの写真を眺めてはうっとりする、幸せな毎日を過ごしていた。

けれどもこのコロナ禍で、オランダ旅行はあっさり消えてなくなってしまった。キャンセルの手続きは、ありがたいことにボタンを一つ押すだけで終わりという親切設計だった。あまりに簡単にキャンセルできたから、ボタンを押したあとしばらく放心状態になった。まるで最初から旅行の予定なんてなかったような気さえした。「やりたいことは、できるうちにやっておく」、気づくのがちょっと遅かったと痛感した。

コロナで生活が一変し、今まで「やろうと思えばいつでもできる」と思っていたことが、「簡単には実現できない、むずかしいこと」に変わってしまった。「なんであのときやっておかなかったんだろう?」という後悔がいくらでも湧いてくる。なんだかんだと理由をつけて先延ばしにしていたことが、コロナによってはっきりと炙り出された。

だからnote×キリンの#また乾杯しようというテーマを見たときも、「いつか一緒にお酒を飲みたいな」と思っていて、でも実現できていなかった人たちのことばかりが次々頭に思い浮かんだ。

もう10年以上会っていない、すっかり疎遠になってしまった幼なじみのNちゃん。高校生のときに付き合っていた、元カレのKくん。受験生時代にブログで励ましあっていた、顔も名前も知らないDちゃん。新卒で入った会社でお世話になった、取引先のHさん。いつか一緒にお酒を飲みに行けたら楽しいだろうなと思っていたその人たちと、私は一回も飲みに行っていない。みんな連絡先は知っているから、声をかけようと思えば、いつでもかけられたのに。

幼なじみのNちゃんは、絵が好きで、よくノートや手紙にオリジナルのキャラクターを描いて見せてくれた。美術系の専門学校に進学していたから、もしかしたらいま、絵を仕事にしているかもしれない。大人になったNちゃんと一緒にごはんを食べ、お酒を飲みながら、またNちゃんの描く絵を見せてもらえたら、どんなにうれしいだろう。

元カレのKくんとは、自然消滅という最悪の別れ方をしてしまったのが、苦い思い出としていまもずっと心に残っている。Kくんと付き合っていた当時、私は受験勉強に必死で、デートの誘いを断ってばかりいた。悪いとは思ったけど、Kくんも受験生だからわかってもらえると思って甘えていた。結局愛想をつかされ、話してもらえなくなり、私のほうからも話しかけづらくなって、そのまま卒業。卒業式の日にも一言も言葉を交わさず、卒業アルバムにメッセージも贈り合わなかった。ただの自己満足かもしれないけど、当時のことを謝りたい。そして、ちゃんと好きだったことを伝えたい。

ブログでやりとりをしていたDちゃんは、顔も、声も、本名も、好きな食べ物も知らない。でも、互いに受験生だった当時、勉強の悩みや将来の不安なんかを語り合い、慰め合った戦友だから、会って一緒にビールでも飲めばいつまでも楽しく喋れそうな気がする。DちゃんとはいまもTwitterで繋がっていて、弁護士として活躍していることだけ知っている。当時は検事を目指していたはずだから、どうして弁護士を選んだのかとか、そんなことから話を聞いてみたい。

取引先だったHさんとは、電話でよく話をした。互いに遅くまで残業していることが多くて、Hさんの会社に電話をかけるとだいたいHさんが出た。Hさんはいつも、仕事の話にプラスαでおもしろい話を聞かせてくれた。「明明後日の次は弥明後日だよ」とか、「毎日ずっと歩いて移動を続ける民族がいて、彼らには肩こりの人が1人もいない」とか、よくわからない雑学を教えてもらえるのが、いつしか日々の密かな楽しみになっていた。私が転職すると報告したとき、今度飲みに行きましょうと言ってくれたのに、結局実現できていないままだ。

どの相手とも、一回飲んで終わりじゃなくて、改めて一から関係を始める、再スタートの乾杯にしたい。そう思ってもらえるように、がんばりたい。


それからあと2人、一緒にお酒を飲んで、一から関係を築き直したいと思う人がいる。

父と母だ。

私は地方から上京していて、父と母とはもう一緒に暮らしていない。物理的に距離がある以上に、心理的に大きな距離がある。

母とは、中学生の頃ぐらいから折り合いが悪く、顔を合わせればけんかばかりしていた。毎日とは言わないまでも、二日に一回くらいの高頻度だった。

母は過保護で、「高校生になっても門限18時」「夜22時までに寝なきゃいけない」「通学で自転車は危ないから使ってはいけない」など、数々の自分ルールを押し付けてくる人だった。窮屈なルールに反発するとたちまちヒステリーを起こす。私も感情的に言い返してしまい、さらに火に油を注ぐ。その繰り返しだった。

父は仕事が忙しくてあまり家におらず、母と私の関係に介入しようとはしなかった。私も「父に相談してみよう」という発想は一度も浮かばなかった。

家にいるのが息苦しくて、だから大学進学を機に上京することに決めた。

受験が間近に迫ったある日の夜、母に「東京に行かないで」と泣かれてしまった。「もう一週間後に試験だし、ここまで勉強がんばったから絶対受験したいし、受かったら、東京行くよ」と言うと、「家を出るってことは、家族を捨てるってことだ。上京するなら、その覚悟をもて」と言われた。「進学で一人暮らしをするなんて珍しいことじゃないし、家族を捨てたいなんて気持ちはないよ」と返せればよかったのだけど、家を出る口実に東京への進学を決めた節があるから何も言い返せなかった。結局運よく第一志望だった大学に合格することができた私は、逃げるようにして、18年過ごした実家から旅立った。

上京してからは年に一回しか帰省せず、心の距離はますます開くばかりだった。気が進まなくて、婚約者の彼を紹介するのもどんどん後回しにしてしまっていた。そうこうしているうちにコロナが流行して帰省できなくなった。ちゃんと両親に会わせてから結婚したいと思っていたから、彼と話し合って結婚の時期を遅らせることに決めた。もともと結婚式は身内だけで、しかも入籍してからのんびり挙げようと式場も決めていなかったからその点は大丈夫だった。理解してくれた彼には本当に感謝している。

父と母に対しては、正直まだわだかまりが残っている。2人も私に対して、思うところがあると思う。でも、このままずっと会わずにいて、他人みたいになってしまうのは嫌だなと、会えないからこそ思うようになった。

コロナが落ち着いて、彼と一緒に帰省したら、できたら4人でお酒を飲みたい。ごはんのおいしいお店で、早寝の母がそわそわしないように、お昼から。ちょっと前までは思いつきもしなかったことを考える自分に、正直びっくりしている。ちょっと前みでは、どこか適当なカフェで軽くお茶をして、それで終わりでいいと思っていた。本気でそう思っていた。でもいまは違う。お酒を飲みながらゆっくり話して、それを再スタートのきっかけにできたらどんなにいいだろうと、思わずにはいられない。

母はお酒が弱いから、一杯しか飲まないだろう。体調次第では、全く飲まないかもしれない。父は弱いくせにお酒が好きだから、たくさん飲んで、すぐに顔を真っ赤にするだろう。彼はお酒が強いから、父の相手をしてもらおう。私は飲みすぎると寝ちゃうから、それだけ気をつけよう。

父も彼も私も話し下手だから、母がひたすらマシンガントークして、そんな母に彼はちょっと圧倒され、私はちょっと疲弊して、父はマイペースにぱくぱくごはんを食べると思う。そんな光景が目に浮かぶ。

でも、4人で乾杯して、いつもより多く笑えるといいな。絶対実現させたいな。その日のために、いまできることを一つずつがんばっていこうと強く思う。


#また乾杯しましょう

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